まだ見ぬ世界の処し方を・3
指輪戦後を勝手に捏造しています。
「戻りました」
「おかえりなさい。…大丈夫?」

病院から戻ってきた彼は、ひどくぐったりとしていて、両脇から支えられていなければ、立つことも辛そうだった。
ただでさえ白い肌が、白を通り越して真っ青になっていた。
松葉杖を握る手の甲に浮いている血管が痛々しい。
「あの、」
「立て」
引き立てられた青年の、両脇を支えていた男がそう言えば、彼は伏せていた目を上げる。
生気のない疲れた顔、それは体の怪我のせいばかりではない…ということに、沢田奈々はすぐに気がついた。
一昨日家にやってきたこの青年の、怪我は見た目よりもずっとひどい。
昨日の朝、朝食の後で部屋を掃除した。ホコリになるからと台所で座っていてもらい、手早くシーツをかえて布団を干した。
その時に血の匂いがしたのは気のせいではない。
別の部屋の布団を持ってきて横になってもらったら、あきらかにほっとした顔で横になり、すぐに寝息をたてた。よく眠れていなかったらしい、顔色が本当に悪い、白い頬が、まるで死人のようだった。
「そんな、…無理させないでくださいな、まだ動くのも大変なのに、可哀相じゃないですか」
「大丈夫だぁ、…離せ」
青年は両脇にいた男を目で追いやった。男たちは手を離して一歩下がり、彼がゆっくりと玄関に入ってゆくのを見届けた。
本当言えば、いつまでもそんなところに男の人がたむろっているのって、近所の人への外聞が悪いので、とっとと帰ってほしいんだけど、と奈々は思う。男たちは普通のスーツを身につけていたが、風体が普通のサラリーマンにはとても見えない。
「すぐ横になれますからね、早く寝ましょう。疲れているんでしょう」
見上げるような外国人に手を伸ばしても、助けにはならないことを知っているから、肩に手を置くだけに留める。
今朝家を出たときよりもずっと顔色が悪い。今夜は熱が出るかもしれない。
「今日はご苦労様でした。どうぞ、お引取りください」
まだ玄関先に立っている男たちに声をかける。一礼して戸を閉められた。
しばらくして門扉を閉める音もしたが、それよりも目の前の青年のほうが奈々には心配だ。倒れそうだ、いまにも。
玄関をあがるのに手を貸し、サンダルを脱がせて六歩くらいの廊下を歩くのも難儀に見える。息が荒い。
和室の戸は開けてあるし、部屋を暖めようと障子もあけたので、六畳の部屋にはすぐに入れるはずだった。シーツも取り替えたし、枕と布団のカバーも替えた、部屋も綺麗に掃除をして、花を飾った。

彼は足をひきずるようにして中に入る。肋骨にヒビが入っていると聞いた。肩にも背中にも切り裂かれたような傷、後頭部にも包帯が巻かれていて、足首と膝にもギプスが嵌められていた。腕にも頬にも首にも傷があるのを見た。
本当はベッドがいいだろうと思うのに、彼女の家にいる黒い赤ん坊は布団にしろと言って聞かない。理由は教えてくれない。
パパが使っている簡易ベッドを彼に渡したほうが、彼のためにはいいのではないの?
わざわざ辛いことをさせる意味がよくわからない。療養のためにここにつれてきたんじゃないの?
だってこんなに横になるのが辛そうなのに。
足を怪我している人に布団に横になり、起き上がるというそのことが、本当はどれだけ大変か、パパはわからないのかしら。

奈々はそれを知っている。
子供を産んだ最初の一ヶ月、実家の母が子供を抱いていてくれなかったら、自分は綱吉を育てられたかどうかわからない。
初産は時間が長くかかった。二日もの間、夜昼なく陣痛に苦しんだ後、会陰切開をしてようやく子供は世界に出てきた。
おかげで術後の二週間、座るのが本当に辛かった。腰に力が入らなくて、横に座るって綱吉を抱っこして、母乳を飲ませるのが、最初の一週間は本当に辛かったのに――その間夫は、珍しく家にいたけれど(三日だけ)――何もできなくて、母親に呆れられたことを思い出す。
家にいても夫は何も出来なくて、私の母は私と子供の世話をするのに忙しくて、『家光さん、もっとちゃんと勉強しなさい』と母に怒られていたこともあったのに。子供を産んだ後の母親は野生の動物と同じ、自分の子供を守るために気が立っている。夫でさえも敵だとみなして近づけない、痛んだ体を驚くほどの速度で回復させ、子供と自分を守るためにあらゆる感覚を使い果たして消耗する。そんな妻と子供を、恐々と遠くから見ることしか出来なかったくせに。ご飯を外で一人で食べてきて、母と奈々は二人して、『これだから男の人は駄目なのよ。なんでお弁当を買ってくるって気が回らないのかしら。しょうがないわ』と愚痴を言い合ったものだった。今はそれを思い出しても、ただ懐かしいとしか思わないけれど、まだ十代だった奈々は本当に心細くて寂しくて、不安で不安でたまらなくて、辛くて眠くて大変だったのだ。

せめて横になるときにどこか、手をかけるところがあれば、とテーブルを近くに寄せてみたが、それを使ってもとても大変そうだった。
彼の斜め後ろに膝をつき、腕から松葉杖を受け取る。そうするといつも、肩がびくりと大きく震えるのがわかる。
長い髪の向こうから視線を向けられている。彼はいつも困ったような顔をしてこちらを見るのが、なんだかひどく不思議な気がした。まだとても若いのに、どうしてそんな――老成した顔をするのかしら。
「手を貸して。膝を…片方づつ、ね?」
「いや、いい……離せ」
「大丈夫よ、半分だけ体重寄せてみて。ずっと楽になるわ」
寝かせるために膝をつかせて、体を回しながら横にしようとするのを拒まれる。満身創痍に近いのに、他人の手を拒む姿はまるで――人に慣れない野生の動物のよう。
膝をつくだけで息があがるのに、そこまで無理をするのはやっぱり信用されていないからかしら。
それでも横になるだけでぐったりとしている理由は、怪我のせいだけじゃないのでしょう。病院行くのはとても疲れること、彼は特にこうやって、知らぬ家に寝泊りしているのだから、どこにいても体が休まることがないんじゃないのかしら。夜はたぶんほとんど眠れない、綱吉と夫の気配で気が立っていることに二日目の昼間に気がついた。
「横になったら寝たほうがいいわね、食事は?」
「病院で食べてきた」
「じゃ、少し寝て」
「ああ、…」
そうしてそっと目を閉じる、瞼に薄く浮かび上がる血管が透けて見えるほど、本当に、本当に色が白い。
包帯の巻いた額にかかる前髪は、まだ少し血の匂いがする。
怪我をした後で一度も洗っていない髪はそれでも少しきしんでいるくらい、流れた血が固まっているわけではない。髪に絡んだ血は、丁寧に拭いて落としてくれたのだ、誰かが。本当は一度くらい洗ったほうがいいのだが、髪を洗うのも体力がないときはとても疲れる。せめて何か――ああ、水を使わないシャンプーってのが売っているはず。あれを買ってこようかしら。買ったらパパに請求書回してやるわ。
彼はとても背が高いので、普通の布団では長さが足りない。新しい布団は一式いつのまにか揃っていて、それには少し驚いた。、それでも急ごしらえの布団はあまり質がよくないようで、足下に毛布を一枚補って体を温めた。
布団の中に横たわる体は、成人した西洋人の男性だというには薄すぎて、生きているのかどうか、いつも確かめずにいられない。
赤ん坊はあまり不用意に近づくなと言うのだけれど、どうしてもそれをじっと眺めてしまうことを奈々は止められなかった。
綺麗なものを嫌いな女の人は、この世にはたぶん、いない。そう、目を閉じた青白い顔の青年は、それはそれは綺麗だったのだ。
それはどこか、花屋の奥のショーケースの中にある、高価な百合の花を眺めているような気分に似ていた。
白くて綺麗な花、手を伸ばせばその熱でしおれてしまうような、香りの高い異国の花を見ているような気分だった。


いなくなった人間と増えた人間をはかりにかければ、同じくらいではないのかしら。でも手伝ってくれる人がいるのといないのでは大違いね。
パパとツナくんだけならどうにでも出来ると思うのに、外国の人、しかも病人になにを出せばいいのだろう――それがここ数日の奈々の悩みの種だった。手がうまく使えないらしい病人に、どんな食事がいいのだろう。
ドラッグストアで必要なものを買い揃えていると、近所の人に会った。そういえば前にイタリアにいたことがあるという話を聞いた事があったので、イタリア料理のレシピをメールで送ってもらう約束を取り付けて家に戻る。家にあるもので出来そうなメニューだといいのだけれど。
自分の子供は好き嫌いがあまりないけれど、居候の小さい子は食べられないものが多かった。まだ子供だったのだ、と思い返す。なんだかついこの間別れたばかりなのに、ずいぶん前のことのように思えてしまうのはなぜだろう、この青年のことを四六時中、考えているからかしら。
でも今は子供たちは誰もいない。だから料理は子供向けにしなくていい。そうなるとかえってメニューの幅は増えたのかもしれない。
そういえば確か前にビアンキちゃんが教えてくれたレシピがあったはず、今晩はそれに挑戦してみようか―――。
和室の襖を全部閉めるな、とはパパとリボーンちゃんに言われたけれど、でも開いていると外の音が聞こえて煩いのではないかしら。そう思うとどうしても最期まできちんと戸を閉めてしまう、彼は疲れている、そして少しでも、一人で眠りたがっているのだから。
それにそんなことをしなくても、あの子は私が部屋に入れば、すぐに起きてしまうのだ。
ツナくんはまだ帰ってこない。昨日も遅かった。どうやらこの子とツナくんはなにかあったようだ。私にはいえないこと。ハルちゃんも京子ちゃんも、そして獄寺くんも山本くんも知っていて、でも私にはいえないことにかかわる何か。
何があったのかと聞いても、詳しくは話してはくれない。
パパも同じような顔をしてはぐらかす。やり方がツナくんとパパは同じね。男の人は口ベタで困るわ、私が本当に、何も知らないと思っているのかしら。


夕飯の前に簡単に作れるケーキを焼いて、ハーブティを入れて和室へ行く。戸を引くまえに彼は起きていて、声をかければうっすらと瞼を持ち上げる。
白くて長い睫毛、それが白い頬に灰色の影を落とすのは、まるで何かの宗教画のよう。
眠りからさめる姿は一度殉教して死んだ聖人、それとも神様のお告げを持ってきた天使かしら。

「ケーキ焼いたの、食べられる? 寝たら少し元気になった?」
「あ―、…そうだなぁ…」
そう言って、起き上がるのに手を貸した。脇の下に肩を入れて体を起こすのを手伝うと、消毒薬の匂いに生臭い血の匂いが混ざってくる。
「…悪ぃなぁ、…体、臭いだろ? 一回も洗ってないから、血なまぐさい、だろう、し」
「そうねぇ、確かにあんまり綺麗じゃないと思うわ。今日はまだあたたかいから、体拭きましょうか?」
「いやぁ、…そんな、ことは、」
「水がなくても洗えるシャンプーを買ってきたのよ。せめて髪だけでも洗いましょう?」
「あー、…それは、…」
「せっかく綺麗な髪なのに、もったいないでしょ?」

そんなことを言えば彼は、困ったように目を伏せるばかり。スッくんはいつもそんな顔、困った目をしていつも口をつぐんで瞼を伏せる。
長い銀の髪は彼の顔を隠すためには最高のブラインド、だから彼が本当は目を伏せたとき、どんな顔をしているのかわからない。
でもいい顔じゃないことはわかる、言いたいことがある、聞きたいことがあるのだ、彼には。
戸をあける一瞬、いつも視線が一瞬、本当に一瞬――誰かを探して彷徨うのを知っている。
視線がずっと上、最初は天井かと思ってた。ケーキの乗ったお皿を渡した。彼の膝にお盆ごと置く。
彼の手は左手が義手なので、左手で食器を持てない。左手はものを支えることくらいしか出来ないらしい。
それもあって、赤ん坊は二人でいるときに彼に食器を出すなと言った。だからケーキは指でつまんで食べられるものにしたた。
本当は生クリームを乗せたかったけれど、それだと指が汚れてしまう。彼はそれを心得ていて、切るものをくれとかフォークが欲しいとか絶対に言わなかった。今日もケーキの皿を左手で押さえて、右手で千切って口に運ぶ。少し匂いをかいでから、一口かじる。
やっぱり日本の食べ物が口に合わないのかしら? 
いつもご飯食べるとき、ひどくゆっくりと口に含むのが気になる。
今日もひとかけらだけ口に入れ、ゆっくりと噛んでから、飲み込んでしばらくじっとしているのが不思議。
食べた時の表情が、おいしいとかおしいしくないとか、そういう気持ちがまったく感じられない神妙な表情なのも不思議。

「日本のお菓子は口に合わないかしら?」
「……? いんや…? そんなことは、ねぇぞぉ…?」
「そう? ならいいけど。スッくんっていつも、何か食べ始めるとき、とってもこわごわ食べ始めるんだもの。日本のが珍しいのかなー、って思ってたのよ」
「…そうかぁ? 確かに、珍しいとは思うがなぁ…。普通の家で、作るようなモンは、初めてだからなぁ…食べるのは」
「そうなの? …あ、そうよね、私ったら気がつかなかったわ」
確かに、知らない家で出された市販の品ではない食べ物に畏れを抱くのは当たり前のこと。自分と彼とは面識があったわけではない。
確かにいきなり人の家で出された料理って、少し食べるの勇気がいるものね…。
そんなことにも気がつかなかったなんて、なんて気が回らない。子供たちとは同じに扱ってはいけないことを忘れていた。
「あんまりおいしくないかもしれないけど、ごめんなさいね。家で普段出しているものにしちゃったわ。…ツナくんには、できるだけ私が作ったお菓子を食べてもらいたいかな、って思ってるのよ。どうせ大人になれば食べなくなるんだもの」
「…そんなことは、ねぇと思うぞぉ…。ナナの食事は、どれもうまい」
「あと何年食べてもらえるかわからないし」
男の子はそのうち母親のお菓子なんかほしくなくなるでしょうね。それが好きな女の子に取って代わるのが普通だわ。
色っぽい話のないツナくんだけど、そのうちそうなることでしょう。
「マンマのドルチェは別格だと思うがなぁ…?」
「そういえばスッくんの国ではどんなお菓子食べるの?」
「あー? どんなって…ケーキとか…同じようなもんだぜぇ」
「甘いもの好き?」
「疲れた時には食べるようにしてるけど…」
「何か食べたいものがあったら言ってね。イタリアと同じようなものは、無理でしょうけど」
「別に気にしなくてもいいぜぇ…大変だろう?」

彼はとても思いやりのある青年だとすぐにわかった。彼の国はそうなのかしら、女の人への対応がとても自然。
褒める言葉がすぐに出てくるし、女の人、特に母親に対してはいつも、尊敬と畏怖の念をもって語る。
イタリアの男の人は世界一女性にやさしい、って話はよく聞くけれど、確かにそうかもしれないと思うわ。
「なんだかスッくんってあまりご飯食べるの好きじゃないみたいなんだもの…。やっぱりパスタとかのほうがいい?」
「…いんやぁ? そうでもないぜぇ…? 米のほうが、食べやすいと思うけどなぁ…?」
「そうなの? 普段はどうしてたの?」
「ああん…? …普通にしてたぜぇ…?」
「何か食べたいものとあるかしら?」
「ナナのご飯は上手だぁ…それで、十分だぁ」
どこか子供みたいな舌ったらずのしゃべりかた。口はケーキを噛んで咀嚼するのに、全然表情は嬉しそうじゃない。
まずいとかおいしいとか、そういう顔じゃない、どこかを誰かを何かを、考えているときの顔をしてる。
彼は本当に静かにものを食べる。噛み砕く音もしないほど、静かに。
食事の最中に咀嚼音を響かせるのはヨーロッパの食事のマナーとしてはしてはいけないこと。
それを思うと、やはり彼は流暢に日本語を介していても、欧州の血で育てられたのだと思う。


食べ終わったら髪を洗おうという提案はなかなか受け入れてもらえなかった。
何故いけないのか、気持ち悪くないのか、懸命に説得してようやく、たぶん根負けしたんのだろうと思うけれど、髪に触れることを許してもらえた。
「もつれている毛先、少しそろえてもいい?」
そう聞いたのは、ただ少し気になったから。消毒液と乾燥で荒れた、銀色の長い髪の毛の先が、触るだけでわかるほど、ひどい枝毛になっていたのが、とても気になったから。
日本ではまず見ない、光をすかせるほどに薄い、指で集めてぎゅっと握ってようやく金だとわかる程度の白銀の髪。そう、白って言葉は本当はしろがねの意味、銀こそを白というのだと聞いたことがある。プラチナとはこういう色をいうのかしらと思えば、胸の鼓動が早くなった。
「…揃える…」
意味がわからなかったかしら?
「少しだけ、切りそろえてもいいかしら? 当分お風呂に入れないだろうし、先の痛んでいるところを切ったほうが、毛先が綺麗になると思うのよ」
「……ぁ――、それは…リボーンに怒られると思うぜぇ」
「……? なんで怒るの?」
意味がさっぱりわからないので聞いてみる。彼はなんだかひどく困った顔をして、私の顔を見返した。
「刃物出すなとか、言われてねぇかぁ?」
「そういえばそんなこと言ってたわね? 刃物とか怖い?」
「え?」
やっぱりスッくんは意味がわからない、という顔をする。なんでいつもそんな顔をするのかしら、この子は。なんでいつもそんな、知らない言葉を質問された子供みたいな顔するのかしら――ああ、質問されるとそんな顔、するのかしら。
「そういうわけじゃねぇよ……リボーン、いるんだろ」
「呼んだか」
スッくんが声をかけるとすぐに、障子があいてリボーンちゃんが部屋に入ってくる。私はちょっとそのタイミングに驚いた。
いつも監視してるとは聴いていたけれど、本当にすぐそばにいるなんて――ちょっとびっくり。相変わらず、不思議な子だと思った。
「おまえがそこにいればいいのか?」
「そうだな。おめーがおとなしくしてればなんら問題ねーだろ、スクアーロ」
「? なんだかよくわからないけど、髪切っていいのね?」
「いいんだろぉ?」
「少しはいーんじゃねーのか。大人の好意は受け取っておくもんだぜ」
なんだかよくわからないけれど、二人の間では話がまとまったみたい。私はスッくんの背中に持ってきた大きなタオルを巻いた。後ろに回って髪を梳く――やっぱり綺麗な髪だと、本当にそう、思った。
「綺麗な髪ね」
「珍しいだけだろ」
「珍しいっていいことじゃない。一つしかないってことよ」
「……そういうもんかぁ…?」
「そうよ。ステキだわ」
私はそう思うからそういう。なのにスッくんはいつも、そんな言葉を知らないかのような顔をする。知らないの、本当に? 本当に知らないのかしら、その姿かたちを褒められること。みんなはこれが綺麗だと思わないのかしら? 珍しいからそう思うだけかしら?
私はとても綺麗だと思うわ。手の中をすべるように流れる髪の毛先にはさみを入れると、見た目よりずっと嵩のない髪が落ちてゆくのにちょっと驚いてしまう。加減しないと思ったよりも短く切ってしまう、あんまりがたがたにすると後で揃える時に短くなりすぎるかもしれないわ。
髪を切っているあいだ、スッくんは本当に静かで、自分から一言も喋らなかった。私は聞けば時々答える程度、あとはただじっとしていて――ふれた背中の筋肉が驚くほど張り詰めているのに体がとても薄いこと、思ったよりも肩幅が広くないこと、頭の形がとても綺麗なこと――そんなことがわかるたびに、なんだか少しだけ私は嬉しくなった。





彼は本当に静かな子で、私が話しかけなければ、本当に何も言わないで一日寝てばかりいた。若い男の子がそんなにじっとしていられるわけがないだろうと私は思うけれども、彼は何も欲しいとかくれとか自分からは言わないのだ。一度、喉が渇くから枕元に水が欲しいといわれて、ペットボトルをあげたらひどく珍しがられた。その後は使い終わったボトルに水を入れて、それを手で握って筋力トレーニングをしているらしい。そんなことしても大丈夫なの、そう聞けば少しは動かさないと血行が悪くなって治りが悪くなるんだぁ、と答えられた。確かにそうね、怪我は少しでも体を動かさないと、動かない形で固まってしまうものね。時々私がいないときにリボーンちゃんと話をしているみたいで、ぼそぼそと話しをする声が聞こえることがあったわ。


でも本当は彼はそんなに静かな青年じゃないんだろうと知ったのは、面倒を見始めて十日が過ぎた夜のこと。
夕飯の前に彼の部屋に家光が向かっていって、様子を聞いていたのはわかっていた。ぼそぼそと話す言葉は日本語ではなくて――そして。
彼が大声で怒鳴った。いや、それはそれは叫びだったのかもしれない。意味はわからない、言葉なんか知らなかった。ただそれは叫びだと思った、奈々はそう思った――そうとしか思えなかった。

『アイツはどうしたんだよ…!』

家光が彼の名前を呼ぶ。日本語ではない発音で呼ぶ、彼の名を、彼の通り名を。
青年は叫ぶ、血を吐くように叫ぶ。そう、血を吐いているのだ、そうとしか奈々には思えない。
私にはそうとしか聞こえない、声だけなのに、――泣いているようにしか聞こえない。

『生きてるのか…? 生きてるんだろう…!? そうじゃなければ俺が生きてるわけがない、そうだろぉ家光ッ!』

「母さん…」
ツナくんが二階から降りてきた。ツナくんにも何か感じるところがあるのか、どこか青ざめた顔でじっと立っている。
私たちは部屋の前に出ることも出来ずに、台所の戸の影から、六畳の和室の障子戸をただ、見る。
「スッくんにあんな声、出させたら駄目よ…。怪我がまだ治ってないのに、」
「母さん、彼は」
パパが彼の名を呼ぶ、そして何かを言う。彼の声は聞こえない、でも最後に一言だけ、ああ、あれは呪詛の言葉だ、ということはわかる。彼はパパを嫌っている、個人的な意味ではない理由で、苦手というよりはもっと深く、何か彼の中の大切なところに触れた咎で嫌われている。
しばらくしてパパが出てくる、私たちはつとめて冷静に答える。ご飯どうするの、そう聞けば少ししたら持っていってくれないか、一緒に食べるのは嫌だろうし、そう答えられた。――そんなに酷いことを言ったの?
「話の流れだ。…ちょっと興奮させた」
「なんでそんなひどいこというの? スッくんは怪我してるんでしょう? ようやく包帯が取れてきたばっかりなのに」
「うん、そうだったな。興奮させるつもりじゃなかった」
「あなたが酷いことを言ったに決まってるわ」
「……おまえあいつの味方するのか?」
「当たり前でしょ、怪我してるんだもの。わたしが味方しなくて誰がするの」
そのままご飯になって、終わったらすぐに和室に食事を持っていく。ツナくんにも台拭きと湯のみを持たせて、障子をあければ布団の上に起き上がった彼が、うつむいたまま自分の手を握っていた。
声をかえて食事をすすめても、いらない、としか答えない。私はテーブルを出してその上を拭いて食事を乗せる。ごはんとにんじんとねぎとわかめの味噌汁、肉じゃがとブロッコリーにビネガーソースをあえたもの、それにだし巻き卵焼き。卵焼きをくるくる巻いてみせたらひどく喜んでくれたので、いざというときにはこれを作ることにしてしまっている。ちょっとズルいかしら、御機嫌取りに好きな料理を作るなんて。
少しでもおなかに入れてね、薬置いておくから…そう言って立ち去ろうとしたときに、薄い唇がほどけて、何かを囁いた。
それはなんだったのだろう、耳に残る単語のその、響き――耳の奥でその晩は、何度も何度もこだました。




2009.1.23
前のからえらい間が開いてしまって話の展開を忘れそうです……。

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