ありふれた愛に関する記録・3
オリジナルキャラが出てきますのでご注意ください。
新しく買ったばかりの車に少年を乗せて、ピエールは少年に告げられた住所のアパルトメントまで送っていった。少年はずっと何かを伺うような顔をしていたが、車を出すと少しだけほっとしか顔をした。そんな顔をするとやけに子供っぽかった。24歳になったピエールは、自分が15、6歳だったころのことがよく思い出せない。10歳前後の年の差ではないかと思ったが、少年はひどく老成しているようにも見え、まだ子供のようにも見えた。
アパルトメントの前でおやすみを言って別れたときに、少年はあきらかにほっとした顔をした。ピエールはその意味を深く考えなかった。

少年はその後も一人で、何度も何度もやってきた。遅い春が来て日差しが強くなり、バカンスのシーズンがやってきて、短いながらにピエールもバカンスを取ることが出来た。七日ほどの休みがもらえたピエールは南仏に旅行に行き、少し日に焼けて戻ってきたが、少年は相変わらず、白い肌、銀の髪、黒い服と青い瞳のままだった。
少年はときおりものすごくすさんだ雰囲気で、ピエールから声をかけることも出来ないほど暗鬱な瞳でやってくることもあったが、少年のほうからピエールに声をかけてくることもあった。そういうときは少しだけ表情が動き、年相応の目になった。だがそれも施設に入る前だけで、出てくるときはいつも、あのさびしくてたまらない顔をして、自分が出てきた廊下の先を、振り返り振り返り帰って行った。
遅い秋がやってきても少年はそこにやってきた。少年は本当に、何度も何度も何度でも、飽きずに繰り返し何度でも、少しの空き時間があればそこにやってきていた。何度も何度も何度でも、そしてそのたびに目元が赤くなっていた。

一年で少年らしい首筋は隠されてしまった。少年は相変わらずずっと、帰るときに泣きはらした真っ赤な目をしていた。秋がきて冬がきて、ピエールはいくつかの賞に作品を応募し、年があけたらそのうちの一つが賞を取った。少年は相変わらずいつも疲れた顔をしていたが、しかし成長期ののびやかさがそれを覆い隠してしまうほど、成長は著しかった。二年で髪は肩を多い、振り返る少年の肩にまとわりついて流れるほどになった。ピエールは賞を取った後も相変わらずそこに勤め続け、二ヶ月か三ヶ月に一回ほどの割合で作品を書いて発表することが出来るようになった。少年は相変わらずやってきたが、来る頻度が少し減っていた。
夏の終わりに一ヶ月ほどやってこなかったことがあり、秋になってやってきた時はつい、「久しぶりだね、どうしてたの?」と聞いてしまった。少年はこわばった表情を少しだけ緩めて、「ちょっと怪我しただけだぁ」とだけ呟いた。二年目の秋が深まると、少年は一層憂鬱そうな顔になり、ハロウィンの前の半月は、本当に長い間建物の中にいて、出てくるときは本当に眼が真っ赤になっていて、とても声をかけることが出来る雰囲気ではなかった。
冬が来てノエルの季節が来て、一年でもっとも華やいだ季節の最中だというのに、少年は相変わらず黒と白の無彩色のままで、世の中になんの楽しみもないような顔をしていた。顔色が悪く、生気がなく、時にはあまりに悲しそうなので、そのまま帰してしまうのがあまりに哀れだったので、声をかけてしまったことがあった。部屋の中に少年を呼び、一杯のカフェをふるまえば、少年は砂糖とミルクをたっぷりいれた薄いコーヒーを冷ましながら飲んでいた。伏せた睫毛を眺めていたら、ピエールはようやく、少年がとても美しい顔立ちをしていることに気がついた。この国には珍しい、薄い色素の白い肌や、光の色を跳ねかえす月のような銀の髪、透明な青い瞳や厚みのない唇のバランスはどこか危うげで、悲しく、さびしげな雰囲気が、少し釣りあがった眦のきびしさを減らしていた。本来はこんな表情をするような子供ではないかもしれないとピエールは思った。彼の着ている黒い服は、時折濃厚な血の匂いを放っていて、少年はすでに闇の中で生きているのだということを彼に教えた。酒と煙草と化粧品の匂いではない夜の香り、それが何を意味するのかということを、この地に生きている人間の一人であるからには知らないわけではなかった。
だが少年には性の匂いがしなかった。十代後半(だろう)の少年にはどこか、生命力と同義の性の匂いがまとわりついて離れないものだが、不思議なことに少年には女の影がなかった。そしてそういう場所で生きているイメージもなかった。そういう仕事をしているわけではないのだろう、崩れた雰囲気は感じられない。
少年は少しだけほっとした顔をして、そっとそれを飲み干して帰っていった。
三年目には少年の髪はいよいよ長くなり、少年としてではない、別種の美しさが増してきた。少年の姿は子供から大人の間をものすごい速度で移動していった。ピエールはその頃には定期的に作品を発表することが出来るようになり、初めての本を出すことも出来た。少年は相変わらず、時間があれば何度も何度も施設へやってきた。三日に一度のこともあれば、一週間以上も来ないことも、一ヶ月近く顔を見ないこともあった。少年は半年に一度ほど、まるで死の国から戻ってきたかのような陰鬱な、果てのない闇の中から絶望だけを抱いてやってきたような顔でやってきて、魂の抜けたような空ろな瞳でふらふらと中に入り、泣きはらした顔で戻ってくることがあった。その時のひどさだったらなかった。名前を書こうとする指先はがくがくと震えていて、読みにくい文字が本当に読むことが出来なかった。
あまりにその様子が哀れで仕方なかったので、ピエールは思わず声をかけてしまった。
「コーヒー飲んでいくかい?」
なるべくおしつけがましくないように、そう思いながら声をかければ、少年はびくりと体を震わせて、すがるような、畏れるような、すがるような目で見上げるものだから、ピエールは拾ってきた犬や猫にミルクをあげなければならない気持ちで、少年に一杯のカフェを振舞うことにした。本当はもっと甘くて柔らかくて優しいのみもの、甘いココアの一杯のほうがずっといいんだろうに。
少年は黒い皮の手袋のままカップを受け取り、びっしりと生えそろった睫毛を震わせて、涙を湯気で見えなくしてしまいたいかのように顔を伏せて、そうっと一杯のカフェに口をつけた。飲みながら、カフェを飲み込みながら、何かに耐え切れなくなったのか、ぎゅっと目を閉じた。そしてそっと目を開き――カップを両手で掴んだまま、はらはらと涙を流した。
それは透明なガラスの粒だった。透明な白いガラスの粒が、日に焼けない白い肌の上に、次々とこぼれてくるのはまるで何かの絵のようだった。
ピエールは一瞬ひやっとしたが、少年は彼に気がついていないかのように、カップに注がれたカフェの水面をじっと見つめていた。見つめながら、少年はただはらはらと涙を流し続け、泣き続け、とうとうピエールは耐え切れなくなって、少年の手からカップを取り、それを脇のテーブルに置いた。
少年は両手で顔を覆い、膝に突っ伏して、低い、獣のような声をあげて泣いた。
それは獣のようだった。子供の声ではなく、大人の声でもなく、鳴くことを恐れる野生の動物のようだった。野を駆ける生き物が、身を切るようなさびしさに耐え切れずに、誰かを求めて鳴いているような声だった。人はこんな声で鳴くことが出来るのかと、ピエールは初めて知った。
少年の背中に手を添えるべきだろうか? たったひとり、世界の中でたったひとりだけで、何かと戦って、戦い続けているかのような少年の泣き声は、聞いているものの魂を引き裂くようだった。なんと言う声で泣くのだろう、これは子供の声ではない。
少年の背中の上でピエールは手を伸ばすべきかどうか、手をあげてさまよわせ――しかし手を触れることは出来ずに、ただ隣に座っていた。肩と背中を覆っていた髪が、銀のカーテンとなって少年の体を包み隠した。
少年はかなり長いこと、そうやって嗚咽を噛み殺し、肩を震わせ、膝に額を擦りつけて、ただじっと泣いていた。
世界中のよろこびや楽しみ、光や花や香りや命、そういう総ての美しい総てのものから、見捨てられ、打ち捨てられ、たった一人で寂しさに震えているような、叫んでいるような、そんな声で泣いているのは何故だろう? 世界中でたったひとり、たいせつなたいせつなたいせつな、本当にたいせつなものを、ただひとつのものを、ただひとりのひとを――それを失ってしまって、その失ってしまったものが少年に与えていたものが大きすぎて、少年はただ――ただ泣くことしかできないのだ、とでもいうかのようだった。
なぜ少年のことをそう思うのだろう? わからない、ただそうだとしか思えなかった。そうでなければあまりに哀れではないか。世界でただひとり、ただひとり――誰も少年の言葉を理解しないかのように、ただひとり、ここで肩を震わせて泣いている少年の孤独を、誰も知らないというのは。
ここは病院ではなく、何かの研究や開発をしている施設のようではあったが――ピエールはそろそろ四年に近いこの勤務のうちに、ここに出入りする何人かと少しは親しくなってきたが、彼等もこの場所の本当の役割を知らないようだった。ただ、彼等はココを『牢獄』だと言った。
それは比喩的な意味ではなく、本当にそうだとすれば――少年があれほど頻繁にここに来る理由というものも、推し量ることが出来そうなものだった。

少年の体は本当に小さかった、本当はとても小さいのかもしれなかった。黒い服の下の体は本当はまだ子供で、子供でしかないのかもしれなかった。
誰も来ることがないまま時間だけが過ぎ、少年はようやくのろのろと顔をあげた。たぶん顔はひどいことになっているのだろう、ピエールはタオルを少年の前に差し出した。少年は小さく感謝の言葉をいい、乱暴に顔を拭いた。ああ、そんなに擦ったら目が腫れる――赤くなるじゃないか。
「みっ…ともねぇとこ、見せ…ちまっ…っ」
「新しく入れるよ」
「い、…」
「もう一杯飲んで、送るよ」
「だいじょ…ぶ……だっ…、」
「疲れてるんだろ、少しは大人に甘えなさい」
少年は顔を上げないままだったので、ピエールはもう一杯カフェを入れた。砂糖とミルクをたっぷり入れて、少年は今度はちゃんと全部飲み干した。

三十分くらいすると次の時間の担当の男がやってきた。少年は少し横になれはいいという言葉に素直にソファに横になり、毛布をかぶって体を休めていた。引継ぎをすませ、見回りを今度ジェラードをおごるという約束と引き換えに替わってもらい、少年を連れて車へ向かった。
「家、引っ越した?」
「…んぁ?」
「一年と三ヶ月くらい前に、一回送っていったことあっただろう?」
「あ――? …そんなこと、あったっけなぁ…?」
思わずピエールは笑ってしまった。少年の一年は二十代の一年とは違う、それを改めて実感して苦笑してしまった。
「まぁいいよ、今どこに住んでるの?」
「知ってんだから話早いんだぁ、同じとこにいるぜぇ」
「そうなのか?」
「別に引っ越す理由もないしなぁ。寝るだけだし」
「ずいぶん、色気のない生活してるんだね?」
「あー、……まぁなぁ」
少年はふっと笑顔を引っ込めた。ああ、そういう話を聞いてはいけないのだな、とピエールは思う。


2008.10.16
この間の話を書くべきかどうか…。

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