ありふれた愛に関する記録・4
オリジナルキャラが出てきますのでご注意ください。
少年が目の前で目を閉じたとき、ピエールは何をされたのかわからなかった。
それは軽く、薄く、遠く、そしてかすかなものだった。触れるだけの唇、それはすぐに離れてもう一度、ついばむように重ねられる。
「舌出せよ」
「は?」
「ん」
何か言おうとしたら舌を入れられた。ぐっと体に力をこめて圧し掛かられ、バランスを崩しそうになって踏みとどまる。
その拍子にぬるっと入ってきた舌は、唇を侵して中をまさぐりはじめた。
うまい。
少年にそんなことが出来るとは思わなかったピエールは、完全に不意をつかれた。その隙をぬうように少年は体重をかけてきて、耐え切れなくなったピエールをソファに押し倒した。ぐっと胸の上に少年が体重を乗せてきて、軽い体だと思っていたのに、動かすことができなくなる。
「ん、んーっ!」
「ふ…、っ」
息を継ぐ間を少しだけ。その僅かの合間だけ唇をはずすと、また少年は体を乗り上げて体を摺り寄せ、キスをしかけてきた。少年はキスが非常にうまかった。唇から舌を引きずり出し、顎の付け根や上あごの部分を撫でるように嬲り、角度を変えてついばむように触れてくる。
「ちょ、ま、…な、何する…!」
ピエールはどうにかして自分の体の上にのしかかっている少年の体をどかそうとするのだが、一体どうなっているのか、少年の体は動かすことが出来ない。倒れた体を抱き上げたときはあんなに軽かったのに、意識のある少年は、両足でピエールの腰をしっかりと押さえ込んで、動かせないようにしっかりと固体していた。それほど力を入れているように思えないのに、逃げられない。
「なにって」
少年は意味がわからないとでもいうような顔をして、ピエールの体の上に手を置き、そのまま後ろに下がってゆく。
「お礼?」
「はぁ?」
少年はそのまま上体を倒して、今度は手を伸ばしてベルトを外そうとした。金属のカチャカチャという音にピエールは心底驚き、そしてそのまま少年がジッパーをおろして来たので、渾身の力をこめて少年を引き剥がす。今度は割と簡単に少年の体は引きはがされ、ピエールは体を起こして少年の肩を掴んだ。大きく息を吐いた。少年はぽかんとした顔をしていた。
「何する気だったんだ、いったい!」
「何って、…お礼、しようかと思って」
「はぁ?」
「そのつもりだったんじゃねぇのか?」
「そのつもり…?」
「部屋に上がってくるってそういうことだろぉ?」
「え?」
話が噛みあわない――そう思って、ピエールは部屋に入って初めて少年の顔を見た。
「せっかく俺がお礼に一発抜いてやろうかと思ったのによぉ…」
「はぁあああ??」
少年はそういうと、掴まれていた手を離してゆっくり立ち上がった。
アパルトマンの部屋はがらんどうで、元からあった食器棚とつくりつけのキッチン、ベッドにソファとテーブルくらいしかなかった。
少年はその中で唯一つの生きているもの、人間のぬくもりを持つ存在であったはずなのに――なんでこんなに生気がないのだろう。
「そのつもりじゃねぇのか?」
「え」
少年はそう言ってまた体を寄せてきた。さらりと髪が肩を過ぎる、前髪から見えた瞳が伺うようにピエールを見た。
少年はおかしな笑い方をした。顔の半分だけで笑った。口元をゆがめて少しだけ――。
「エンリョすんなよ。せっかくだから楽しんどけ? 俺、結構イイと思うんだけどよ――男はホントに駄目だってんなら、目ぇ閉じてればいいぜ? 口の中は同じだろうぉ?」
蓮っ葉な口調で片頬だけを歪めた形で少年は笑った。
ああ、あのさびしげな顔に自嘲が加わると、こんな表情になってしまうのか――なんて哀れな。
「君は、別に、こういう仕事してるわけじゃないんだろ…?」
「んぁ? 俺ぁ別に娼婦じゃねえよ」
「だったら、こういうことはいい――こういうことは、お礼にならないだろう…?」
「……そうなのか?」
少年はその言葉に一瞬驚いて、そして困ったようにうなだれてしまった。両手が頼りなげに自分のコートの裾を掴んでいるのが見えた。少年がいつもしている手袋が見えた。今日もだ。めくれあがったコートの袖口から細い手首が見えて――左手に包帯が巻いてあるのが見えた。怪我をしているのだろうか? ――怪我? 何かおかしかった。違和感を感じた。
「じゃあ、…じゃあ、俺何をすればいい?」
少年は困ったように顔を上げた。
「俺、他にお礼とかする方法とか知らねぇんだ。何か俺にしたいこととかあるだろ?」
「お礼?」
「だ、だって」
少年はまっすぐにピエールを見た。青い瞳だった。冬の空のような凍てついた青い瞳、いつも泣きはらして伏せられていた瞳が、まっすぐに自分を見ていることにピエールは新鮮な驚きを感じた。まだ泣いた跡が目元に残っていて、白い肌がいくぶん赤くなっていたが、今日やってきたときのような、青白い顔色はだいぶよくなっていて、少年は生気を取り戻していた。
やはり少年は美しい顔立ちをしていた。早く大人になろうとしているのを、かろうじて何かが引き止めているかのような力があった。
「俺に、コーヒー入れてくれたじゃねぇか」
少年はそう言った。
「それって」
「俺に興味があるってことだろ? …違うのか?」
「なんでそう思うの?」
「だって、俺なにもしてねぇのに…だからなんかあるんじゃねぇかと思って」
少年はそう言った。嘲りも非難も諦めもなく、普通の、ただ普通のことのように言った。
「…俺、君がはじめて来た時から知ってるんだよ。…君は覚えてないと思うけど」
ピエールは何気なくそういうと、少年はぽかんとした顔をした。
「え」
「あれはいつだったかなぁ…三年くらい前のだったと思うけど。冬で、とっても寒い日だったよね。…ここに子供が来るの、見たの初めてだったからね、よく覚えてる」
ピエールの言葉に少年は虚をつかれたような顔をした。やっぱり覚えていないんだな、と判っていたことだったがピエールは少し寂しかった。
「ああ…そうかぁ、…」
「あんなに頻繁に来るんだもの。…みんな知ってるよ、君のこと。子供だし、綺麗な子だしね」
本当はそれだけが理由ではない。彼がいつも、思いつめた顔で悲しげに、苦しげに通い詰めていることを、ここにいて気にしない人はいない。
「そうかぁ……そうかもしれねぇなぁ……」
少年はそう言われて初めて、それに気がついたとでもいうようにぽかんとした顔をした。少年の無頓着さは子供らしいと思えなくもない。ピエールにも覚えがある。
「子供が、あんなに頻繁に時間も問わずにやってきて、…帰りにはいつも疲れた顔してれば、大人なら普通気になるだろ?」
「…そういうもんなのかなぁ…?」
少年はその言葉にもどこか不思議そうな顔をした。
「そうだよ。君は心配されたことはないの? いつも具合が悪そうなんだけど」
「そんなヤツなんかいねぇよ、…俺を心配するようなヤツなんか、いるのかぁ…?」
少年は本当にその言葉に意味がわからないようだった。知らないのだ、この子供は。いたわりを感じることがないのか、それとも――それを受け取る余裕がないのだろうか。
「君を心配する人はいないの?」
言ってしまってから、しまったと思った。少年はやはり、初めて聞いた言葉だ、とでも言うように目をしばたかせた。
真っ青な冬の空を写しこんだガラス玉が光った。
「心配? なんで? なんであんた俺の心配すんの? 関係ねぇだろ、全然――俺のことなんか」
「だけど気になるだろ?」
「好奇心ってやつか?」
「それは否定しないけど…子供が泣いていたら大人は気にするもんだろう?」
少年は本当に、聞いた言葉がない、という顔をした。
「…同情してんのか?」
「…そうかな…? そういう意味でいうなら、僕は君に興味があるみたいだね、やっぱり、…」
「俺になんの興味があんの」
少年は小さい声でなにかを呟いた。だがよく聞き取れなかった。
「俺になんの興味があんの? ヤルこと以外に俺になんか価値とかあんのかぁ?」
「価値がなくちゃ興味を持ってはいけないの?」
「んぁ゛…?」
少年は本当によくわかっていないようだった。子供の無垢な瞳、何も知らない――多分本当にわかっていないのだ。
「だって俺の出来ることってそんだけだし…、他になんか俺に利用価値とかねぇって、…」
「君の周りの大人はみんなそう言うんだね」
「……だって本当のことだろう…?」
少年が自分に持っている『自分の価値』とはどんなものなのか、正直ピエールにはわからなかった。だが、本当に誰も――誰も、少年にそれを教えなかったのだろうか? 生きていることだけでいいと、少年がそこに生きているだけで幸福になれる人がいるのだと――誰も、誰も少年に教えなかったのか、知らなかったのか、判らなかったのか。
少年に同情するのは簡単だった。そう、哀れに思えばいい――かわいそうだと、ただ、そう思えばいい。少年が自分に返したいと思っているものを、受け止めればいいのだ。いつも上着の裾を掴むばかりで、人に触れたことのない手を、その手を取ればいい。
だが、どうしてもピエールにはそれが出来ない。

「…髪、伸びたね。願でもかけてるの?」
「……なんでわかんだぁ…?」
「当たりなの? ……君は何か、果たしたい願いがあるんだね、……」
「なんで知ってるんだぁ…? 俺のこと、なんか知ってるのかぁ?」
「髪に願をかけて伸ばすってのは昔からよくある方法なんだよ。……文学や芸術にもよくあるモチーフだ。誓いの証として、髪はとても目に見えやすい。他人に示すにも、とてもわかりやすいしね。…俺、そういうの勉強してたんだよ、大学で」
「大学? おまえ大学出てるのか? 大学出てるのになんでこんなとこにいるんだぁ?」
「大学出ててもいい職があるわけじゃないんだよ…、ってだけでもないんだけどね……」
「…あんま大学って役にたたねぇんだなぁ?」
そう言って少年は笑った。こわばった空気が軽くなった。ああ、年相応の顔をして笑うのを見たのは初めてかもしれない。
「そんな顔も出来るんじゃない。…笑ってるところ、初めてみたよ」
「………そうかぁ? ……悪ぃけど、…俺、あそこ行くときは変な顔してるだろうぉ…?」
「悲しそうな顔してるよ」
少年は目を伏せてまた少しうつむいた。
「なぁ、本当に何もしなくていいんかぁ?」
「…これがコーヒーのお礼だっていうなら、俺にも一杯入れてくれないかな。エスプレッソ、入れられる?」
「んぁ? …いいのか、そんなんで…?」
「だってコーヒーのお礼だろ? 同じものでいいよ。これでちょうどだろ?」
少年はやっぱりまだよくわからないような顔をしていた。同じもの――確かに同じなのだが、少年は納得できていないような顔をして、何もないキッチンに向かっていった。しばらくするといい香りが漂ってくる。…何もないと思っていたが、少年はここでカフェを入れるくらいのことはするのだな、ということはわかった。寝る以外の用途が見出せない部屋の中で、一人きりの少年がカフェを飲む姿は、やはりきりきりと胸を締め付けられるようだった。
少年が入れてくれたエスプレッソは、施設の部屋で自分が振る舞った薄いカフェよりずっとおいしいとピエールは思った。いい粉だった。これを選ぶ少年の姿は少しばかりピエールをほっとさせてくれた。
少年は揃っていないカップにそれを注ぎ、直に持ってきて手渡した。触れた指はきちんと温かく、それだけでピエールは安心した。
二人は黙り込んでソファに並んで座り、そっとその一杯を飲み干した。飲み終わってピエールは立ち上がると、少年が見送ろうとしてドアまでついてくる。ドアの前でピエールは少年を振り返った。
背が伸びた。こうやって向かい合うと、前の時よりも視線がだいぶ近いことがわかった。もうすぐ少年はピエールを追い越すかもしれない。目の前で銀色の髪が揺れていた。
「髪に触ってもいい?」
「へ?」
「いい?」
「別にかまわねぇけど…」
ああ、本当にこの子は自分の価値を知らないのだな、とピエールは思った。そんなことを知らない人間に許すもんじゃない――そんなことするから誤解されるんじゃないのかなぁ…意外なほど無防備で、少し、こわい。
そっと手を頭のてっぺんに置く。頭蓋骨の大きさがわかる。丸い後頭部、髪の質が思ったより柔らかい。耳を掠める、首に触れる。指を開く、間を滑る、さらさらと流れるのは銀の雨。毛先は少し荒れている。
指先を掠めて過ぎる銀の糸に、どんな願いがこめられているのか―――それは知らなくてもいいと思った。
「…こんなんでいいのか?」
「カフェ、ありがとう。またね」
ドアの外で手を振って別れる。道まで出なくていいよ、そういえばやっぱり困ったような顔をする。
またね、でもあんまり会いたくないけど。
また来る時は悲しい顔してるんだろう、そしてやっぱり泣くんだろう。

それだけは、やっぱり替わらない気がした。
少年がどんなに背が伸びても、髪が伸びても、声が低くなっても、背中が厚くなっても、秋になっても、風が吹いても、花が咲いても、きっと。

2008.10.26


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