ありふれた愛に関する記録・5
オリジナルキャラが出てきますのでご注意ください。
少年はその後もまたやってきた。同じように、同じ顔をして、だが少しだけ目でピエールを探して。
目が合うようになった。読みにくい名前も気にならない。相変わらず字は汚い、手袋を外すのに口にくわえるのも替わらない。右手がたどたどしくペンを取る、左手はただ添えるだけ。でもそうやって意識がこっちに向いているのはほんの少しだけ、廊下の先へ向かう前だけ、戻ってくればやはり、目は赤いし表情は暗いし、纏わりつく雰囲気は凄惨の一言に尽きる。
冬が過ぎてピエールの本は少し売れ、別の国で翻訳されることになった。二冊目の本が出た。少し仕事の回数を減らした。
そのせいで少年に会う頻度が減った。名簿を見れば、少年は相変わらずここに来ているようだった。
それでも時々会うこともあった。消毒薬の匂いがする十二月、頬に傷があった一月、目元が少し赤かった二月。三月にはそれこそ死にそうな瞳でふらふらしながらやってきたので、さすがに声をかけて少し休ませた。カップを握る手が震えていて、唇の端を切っていた。左手首にはまだ包帯が巻かれている。
「悪いなぁ」
そんなお礼を言う言葉もやけに掠れていて低くて小さくて、別れの言葉が再開を願う意味であることを少しだけ厭わしいと思った。

四月には髪が雨で濡れていた。五月には咳をしながらやってきた。六月はやけに元気だった。七月なのに肌が白く、八月になっても日に焼けたようには見えない。外の光が眩しいのか、サングラスをしていたのを始めて見た。もう子供の顔じゃないな、そう思った。
九月は疲れていて、十月は悲しそうだった。十一月は髪がしんと冷えていて、十二月は霙でコートが濡れていた。
少年は氷に彫刻を施しているかのように美しくなっていった。伸びやかな手足、しゃんとした姿勢、うつむいた白い肌、憂慮が目元に彩りを加え、髪が背を覆って彼の寂しさを押し隠した。彼はどこまで少年の顔をしていて、しかし振る舞いも姿も、すでに大人の男の出で立ちでしかなかった。いつも黒い服を着ていた。白い体に黒い服、さすがにピエールはこれは喪服なのではないかと気がついた。誰を悼むのか、何を悼むための喪なのか、彼の願いか、それとも彼自身か。
年月はただ過ぎてゆき、ピエールにも色々な変化があった。


六年目の春にとうとうピエールはその仕事をやめることになった。その話をする機会をうかがっていたが、少年はやってくることがなかった。別れを言っておきたいと思って、彼のアパルトメントへ行ってみたが、すでに違う人が住んでいた。引越し先など聞いても無駄だろう、とピエールは思っていた。彼はすでに闇の世界の住人、他人の血の匂いを纏う理由など判りすぎるほどわかっていた。深くかかわることは自分と、自分の大切なもののためにもならないことはよくわかっていた。だから一杯のカフェ以上のものは望まなかった。
それ以上のものを少年から奪うことは出来なかった。彼には何もないのだ、あの場所へ通うこと、そこで何か、誰かに会うこと(実際どのような形で会っているかどうかはわからなかったが)そして彼の出来る何か(それはおそらくピエールが考えているようなこと)。他に何か、少年を構成しているなにか、それを少年から貰う必要はなかった。
少年に言いたいことがあるような気がした。少年の価値を教えてやりたいような気がした。そこにいるだけで少しだけ、君は誰かを幸せにすることが出来るかもしれない存在であることを、教えてあげたいような気がしていた。そんなことを言っても、たぶん少年は意味がわからないという顔をするだろうこともわかっていた。自分の言葉など記憶にも残らない、会わなくなったらきっとすぐに忘れる。
十代の記憶なんてそんなものだ、自分だってそうだった、でもそれでいいんじゃないかと、もうすぐ三十になるピエールは思った。
願わくばいつか、出来れば本当にそう遠くない未来に、出来るだけ早く。出来るだけ、少年が青年になり、その瞳に悲しみの痕跡が残ってしまわないうちに――あんまり泣くものだから、少年の目元はいつもくぼんでいて、どこか凄惨な色気とも違う雰囲気を醸し出していたので――もっと別の、違う何か、本当に違うものをその顔に浮かべることができるようになればいいと思っていた。
あの部屋で少年が見せたような、普通の笑顔を、いつか。














「ジェラードは何が?」
「エスプレッソ、クランベリー、あとカスケードとレモンとヘーゼルナッツ」
「じゃヘーゼルナッツとカスケード。うまいか?」
「ええ、もちろん。ヘーゼルナッツとカスケードですね。かしこまりました」
親戚も家族も残っているわけではないが、やはり故郷の空気はいいものだとピエールは思った。イタリアに戻ってくるのも三年ぶりだ。
とにかくデザートも料理もうまいのがいい。アメリカの量ばかり多い大味のデザートには本当に食傷気味だった。
すでに四十に近い年齢で、ジェラードを舐めるのはどうかと思ったが、しかしこの味! この酸味! はずれが無いのが素晴らしい!
クランベリーのジェラードに野いちごのソースをたっぷりかけて、口の中が真っ赤になるんじゃないかと思うような色彩を口に運ぶ。
ああ、なんというこの甘さ! ほんのりと残る酸味が嫌味じゃない、果実の甘味が癖になる…すばらしい。やっぱりイタリアの食事は最高だ。
そう思いながらカフェのテーブルでジェラードとカフェを口にするピエールの視界に、目の前のジェラードと同じ色がよぎった。
「ん?」
なんだろう? 今視界を横切った鮮やかな色彩、実りの赤の色。どこに、と思ってそれを探す。視界の中でちらりと動いただけなのに、それがやけに印象に残って気になる…気になって仕方なく、ピエールは頭をぐるりと巡らせた。
原因はすぐに知れた、店先のテーブルの一番端、影になっているような場所に座っている男の瞳が、ソースと同じ色だったのだ。
珍しい。
背の高いその男は目を伏せて、手元に視線を落としている。浅黒い肌に黒い髪、目立たないように気配を消しているが、見ればかなりの美丈夫だ。ハリウッドの俳優に匹敵するほどの整った顔立ち、しかし一線を画しているのは頬と額に残る大きな傷痕だった。引き連れて皮膚の色が変わっているが、しかしそれがあってすら美しいと思えるというのはどういうことなのだろう。ピエールは顔に傷のある人間とあったことも何度もあるが、その中の誰よりもその男は自分の傷を、自分の欠点だとは思っていないように見えた。堂々たる風格と品性、強い意志と優雅な振舞、上流の教育を受けて脂の乗り切った仕事をこなしている人間特有の落ち着き。溢れる色気を放つのが抑え切れていない、退廃と革新を血のように身に纏っている支配階級の人間だ、とピエールは思った。
うっすらと青の乗ったシャツに黒のネクタイ、そしてブラウンのジャケット。あたりの女性がちらちらと目線を送っているのがわかった。もちろん男性も、だ。気配を殺しているふうなのに、気がつく人にはわかってしまうのだろう。
そういう趣味があるわけではなかったが、ピエールはしばしその男に見蕩れた。目の保養としか言いようがない。古いイタリアの町並み、石畳にテーブル、緑のシェードの下の豪華な男。そう、彼はなんというか、とても豪華な男だった。一見して普通の男性の普通の姿に見えるのに、なぜそんなに豪華なイメージがあるのだろう。指輪を三つ、両手に分けて嵌めていたが、この距離ではその石など見えはしない。なのに、何故だろうか、それは血統を示す王のしるしかなにかのような、荘厳な威圧感がある。
作家の条件反射で、ピエールはついその男を観察してしまっていた。そして推理する。彼の前には一杯のカフェ、しかし向かいの席の椅子がひかれたままになっている。誰か連れがいるのか、待ち合わせなのか? 一緒にいるとしたら誰だろう。仕事の相手か、恋人か? こんな美丈夫が一人でいるのに、女が声をかけないでいるなんて珍しいこともあるものだ――では家族か恋人か? 
ジェラードが溶けてしまう。ピエールは思い出したようにそれを片付けた。相変わらずそれは甘く、新鮮で、本当においしかったが、しかし先ほどのような驚きに満ちた感嘆は少しだけ遠のいていた。
最後の一口を口に入れ、さてかの人の待ち人が来たれりしか――と視線を上げると、その男の前に誰かが立っていて、流れるような優雅な動きで男の前に座った。手にしたジェラードを一つ、男に渡す。


心臓の鼓動が一気に跳ね上がった。


銀色の長い髪が、細い背中を覆っていた。

ピエールは驚いた。少年と同じ色の髪を見たのは初めてだった。
仕事をやめる少し前に海外で翻された作品が売れ、アメリカで映画化されてかなりなお金が手に入った。それ以外にも色々な生活や創作のもろもろのことがあって、ピエールは生活の基盤を八年ほど前からアメリカに移していた。ドルチェは大味だがあの国は自由で、彼の生活にかかわるノイズは格段に減り、作品もコンスタントに書きあがった。ベストセラーとまではいかないが、出せば数カ国で翻訳されるような作品をいくつか書いたので、生活はそれほど困難ではなかった。
あの国は本当にいろいろな世界の人間が集っていた、いろんな髪の人間もいた。だが少年のような銀に近い金髪の持ち主は本当にまれで――しかもあの、冬の空を写しこんだような真っ青な、あの青い目をもつような人も、本当に見たことがなかった。子供時代はその色でも、大人になると灰褐色にかわってしまう。いつまでも冬の色をもっている人は本当に少なかった。
まさかな、とピエールは自分の妄想をかき消した。男の前に座っているのは、男と同じくらいの年齢に思われる青年だった。顔は良く見えないが、肩幅や動きから、女性にはとても見えなかった。
少年を始めて見てから何年になるのだろう? 最後にあったときはいくつだったのか…少年の年齢を聞いたことはなかった。だが初めて会ったときは十代の中ほど、それから六年…たぶん最後に見たのは二十歳を過ぎたかどうかのあたりだろう。それから一体何年たったのか…自分も四十になることを思えば、少年もすでに青年になっているはず…三十に近いのではないのか。
まさか、とピエールは思った。今少年も見て、判別できるとはとても思えなかった。若く美しい花は枯れるのも早い。若いときにいくら香り立つように美しくても、その美しさがいつまでも損なわれないことはないのだ。成人してからの後に人の顔に積み重なる年月が、その人間を真に美しく感じさせるようになる人間はそれほどいない――誰の上に積み重なる年月も、それぞれに素晴らしいものであり、美しいものではあるのだが――そこまで考えたところで、カフェのスプーンが指から離れた。
固い金属の音がして、店内の人間がこちらへ視線をよこす。店員がさっと替えの食器を持って近づいてくるのが視界の隅で見えたが――今度こそ本当に、ピエールは息をするのを忘れた。

その銀色の髪の持ち主はあの少年だった。
正しくは、ピエールがこうあってくれればいいのに――と、そう思っていた少年の成長した姿だった。
「へっ…?」
ひどく間抜けな声が出て、落ちたスプーンを持ってきた店員が何か? と声をかける。
何でもないと手で制し、しかし視線は離せなかった。
視線があった。
男の前に座っていた銀色の髪の青年は、音に気がついてこちらに顔を向けた。しばらくこちらへ視線をよこし――目の前の男に話かけられてすぐに顔をそちらに向ける。
気がつかない。あたりまえだ、彼と最後にあったのは十年も前だ。覚えているわけはない。ただほんのわずか、顔をあわせていただけの警備の人間の顔など、いつまでも覚えているわけがない。しかもここ数年でピエールはすっかり髪が薄くなり――今回久しぶりに母国に戻り、学生時代の友人と会ったときもそれについてはいろいろ言われたところだったのだ。覚えているわけがない。
まさか、気のせいだ、そんな――そう思いながら、しかしあれは確かにあのときの少年だと、ピエールはそう確信してしまった。何がどうだというわけではないが――その銀の髪の男は目の前の赤い目の男と、静かに少しだけ話をしていた。声は聞こえないが、楽しそうな雰囲気は伝わった。赤い目の男は、それまでのどこか峻厳な空気ではなく、ずっと柔らかいまなざしで話をしていた。肘をつき、顎に手をやって、男に渡されたヘーゼルナッツのジェラードを口に運ぶ。ふっと横顔が目に入る――青年はひどく楽しそうに笑っていた。
ゆるめられた目元、噛み締めていない唇、白い肌にかすかに赤みが刺す頬。カスケードのジェラードをすくって口に運ぶ姿。低い声で何かを言い――男が手を伸ばして青年の額を小突いた。
少し怒って手を振り払う――そして青年は見て判るほど大きく背中を震わせて、すごい勢いで振り向いた。
今度はばっちりと目が合った。じっとこちらを見つめてきた。けぶるような青い瞳、きつい目つきが驚きに見開かれていた。
探るような目つき、しかしその眼差しの強さは――覚えがあった。


「俺のこと覚えてるかぁ?」
青年が席を立ち、こちらに向かって歩いてくるのを、ピエールは映画のワンシーンのように眺めていた。
すらりと伸びた長身、細い薄い身体はあまりかわらない。長い手足、両手に手袋。黒いコートには襟にファーがついてて、銀の髪がその上で踊っていた。長い髪――長い銀の髪がその黒いコートの上を踊っていた。すでに肌寒い季節なのに、屋外の席でジェラードを食べている酔狂な人間は彼らと自分たちしかいない。その席を静かに立ち上がって、こちらに向かって歩いてくる姿勢も美しい。なのに足音がやけに静かだ。黒い上着、黒いパンツ、足元も黒いブーツ。まるでわざと自分の白さを引きたてるように黒い服を着ているだけなのではないか、と思われるその色合い――ああ、でも今日は喪服じゃないんだ……そう思った。
そして優雅にすら見える姿勢で、ピエールの前に立ち、黒い皮の手袋をそっとテーブルの上に置く姿まで、まるで何かの絵画のようだった。
「…覚えているよ」
そう答えるのが精一杯だった。声が震えている――伏せた目元に時間が巻き戻される。一瞬で時間を記憶が越えてしまった。青年は少年になり、初めて会ったときのおぼつかない足取りの、折れそうに細い体の子供になった。そしてそれはまたカフェの湯気の前に伏せられた目元になり、そこから零れ落ちた銀色の涙になり、困ったように見つめてきた瞳になり、そして今の青年の顔になった。
重なった。それはきちんと重なって、そして今の青年の顔になった。間違いはなかった。
「あー、…そういえば俺、アンタの名前知らねぇんだなぁ」
「俺も知らないよ」
「表札見てなかったのか?」
「…本当の名前じゃないんだろう?」
青年はそれには答えなかった。ただ、少しだけ口元を歪めて笑った。不敵な男の顔だった。こんな顔をすることもあるのか、それには少し驚いた。少年は本当にあそこで笑顔を見せたことなどなかったので――何かをこらえているような表情しかしたことがなかったのだ。
「ひさしぶりだなぁ?」
「そうだね。…なんだかずいぶん大きくなった」
「もう子供じゃねぇぞぉ」
「だね。俺ももう、いい年したおじさんだし」
「だなぁ。そのうちハゲるぜ」
「もう危ないんだから、そんなこと言わないでくれよ」
「そりゃ悪かった。…しかし元気そうでよかったなぁ?」
「君もね。……彼は?」
そう口にして、言ってから少し後悔した。青年の顔を見れば、その答えなど不要だったからだ。
「……願いは、かなったんだ?」
「……ん、…まぁなぁ。……全部じゃねぇ、けど」
「会えたんだ?」
「ああ」
「いつ?」
「…八年前かなぁ」
ピエールはその時間の長さに驚いた。彼はあの後もまだあの日々を重ねていたのだ、二回季節が過ぎるまで、夏の日差しを春の風を、冬の光を秋の空気を乗り越えて、髪が背を覆い、目元に朱を散らし、血の匂いを抱きながら、過ぎぬ痛みを抱きながら、ずっと願っていた、願いを重ね続けていたのだ。それを――それを愛と言わずになんと言おう!
なんといえばいいのだろう、その愛を、その涙を、その時間を、その吐息を。励ますのか、ねぎらうのか、褒めるのか。
そのどれも、彼の願いの前にはふさわしくない気がしていた。
「…それは、……」
頑張ったな、とそんなことを軽々しく口にすることが出来るとはとても思えなかった。十代の一年は二十代の一年とは違うのだ。
「…よかったなぁ、……本当に」
口にするのはなんと平凡な言葉なのか! 言葉で生活の糧を得ている人間だとは思えない、稚拙過ぎる選択が忌々しい。
「まぁ、なぁ」
素直にそれを肯定する青年は、もう自分の価値を知っているのだろうか。長い髪が肩を越え、青年の静かな動きにあわせてしなやかに顔の周りを彩った。けぶるような睫毛は変わらず――しかし本当に表情が変わった。それが青年を一層美しくした。そう、彼は美しかった――少し疲れている肌や、色が薄く少しウェーブのかかった毛先や、語尾が割れるような大きな声や、蓮っ葉な言い回しですら、彼の美しさを少しも損なうことはなかった。

それは愛の光、愛のぬくもり、溢れる愛の力だ。そうでなければ、彼の表情はこれほど美しく見えるはずがない!

「それにしても、…あんまり綺麗でちょっと驚いた」
「はぁ? そっかぁ?」
「いくつになったんだっけ?」
「来年で三十だぞぉ。もうガキじゃねぇ」
「へぇっ…! それは俺も老けるわけだなぁ。トシを感じるよ、…ホントに」
「まぁなぁ。…あんときは世話になった」
「お礼を言われるようなことなんか、何もしてないよ」
「…でも、俺は嬉しかったぞ。……あんなこと言われたの、久しぶりだったからなぁ…」
素直に人に感謝の言葉が言える。それはつまり、今の彼は満たされているということだ。人へ感謝の気持ちを表せる、人のことを思い出せる、辛かった自分の記憶を懐かしく思い出して人に話せるということだ。それはもう、彼の中では辛い記憶、悲しい時間、胸を切り裂く悪夢ではないということだ。思い出にしてしまえるだけの時間が、自分にも、青年の上にも等しく降り注いだ。その事実だけで、ひどく心が凪ぐようだ。
そしておそらく青年の会いたがっていた、『あの人』が――『彼』が。
「イタリアに来たの、久しぶりだったんだ。君に会えるなんて、…神様の采配だね」
「運がいいんだろうなぁ、アンタは」
「そうかもね」
そう言って少し笑う。青年も笑う。口元だけを少し上げて、目元をほんの少し緩めて。柔らかい夜の気配がふっと消えて、冬の朝の空気が緩んだ。銀の髪が揺れた、その向こうで赤い瞳がひどくやさしく青年を見ていた。
「今だから言うけれど、…君をモデルにして書いた話で、俺は賞が取れたんだよ。仕事も増えた。お礼を言うのはこっちのほうだ」
「…そんなこと、したのかぁ?」
「勝手にしたことだけど、俺、作家なんだよ、……ヤングアダルトの。アメリカの監督に気に入ってもらえて、映画になったんだ、その話」
「すげぇな、アンタ」
「全部君のおかげだよ、…ありがとう」
「俺は何もしてねぇ。書いたのはアンタだろう。賞を取ったのもアンタだよ。俺ァ関係ないだろ」
「そうかもしれない。でもお礼は言いたかった。本当に、……君が幸せそうでよかった」
青年はそれに答えなかった。ただ透明な瞳でじっとピエールを見つめていた。やわらかい銀の光、虹彩がわからないほどの薄い青い瞳。間近で見なければわからない銀の睫毛、伏せた目元の影がうっすらと頬に刷毛で撫でたような淡い色を乗せる。
見つめていたのは多分一瞬だったろう。青年の背後で小さく男が彼の名を呼んだ。低く、うつくしい声で、いとしいものの名を愛でる声で、「時間じゃねぇのか」と青年を促した。
「今、アメリカにいるんだ」
ピエールはそう言って、懐から名刺を取り出して青年に渡した。青年はその文字を一瞬だけ目で追った。
「もう会えないかもしれないけど…、本当に、君が幸せそうでよかったよ」
「…アンタの名前、初めて知ったなぁ」
「そうだね。……彼が呼んでるよ」
「ん゛ぁっ? あ、じゃあな。会えてよかった、……」
「俺も。元気で」
「そっちもな」


そう言って青年は、左手を上げた。黒い皮の手袋、伸ばした手とコートの隙間にまた白い包帯が見えた。青年は、彼の名を呼んだ男の元へ、弾むように走ってゆく。頭の動きに連れて長い銀の髪が揺れて、黒いコートの上を踊りながらついていった。石畳を走る音がしない青年の足元は、もうあの頃のように疲れてもいないし、荒んでもいないし、ふらついてもいなかった。手首の包帯だけは同じだったが――それが意味するところを少しだけ考えて、しかし今それは、どうでもいいことのようにも思われた。
かつて細くて悲しそうなぼろぼろの少年だった男は、見事なまでに美しい青年になって、ただ、彼の名を呼ぶ男のもとへ、弾むように走ってゆく――銀と黒の優雅な生き物として、通りすがる人の目を否応なしに奪う存在になって。
彼らは自分の名前を言わない、自分のことを語らない。その理由を充分過ぎるほど、ピエールはわかっていた。
闇の中から生まれ出でたような二人の美しい青年は、ピエールが後姿を追っていたのに、すぐに見えなくなった。二人のいた席のカフェもジェラードもあっというまに片付けられていて、二人のいた痕跡はもうどこにもなかった。
ピエールは一度目を閉じて、腕時計を見る。こっちも待ち合わせの時間だ。さて、どうするか…と思っていると、すぐに彼の待ち人がやってきて、彼の前のテーブルに座る。ピエールの前のジェラードの皿を見て、自分も頼むかな、とメニューを眺め始めた。
「…どうしたの、ニヤニヤして。気持ち悪い」
「ん? そんなヘンな顔してた?」
「してた。一人で思い出して笑ってるじゃないか。いいことあった?」
「ん、まぁね…ひとつ、願いが適ったかなぁ、って…」
「ふぅん?」
カフェオレを頼んだ数年来の同居人はそれ以上追求せず、ほっとため息をついて町並みを眺めていた。
彼と暮らすためにおおよそ二桁に近い年月を費やした自覚があるピエールは、青年のことはいえないな、とそっとため息をついた。
もう二度と彼らには会う事はないだろう。そういう仕事なのだろう、青年は。そして彼の名を柔らかく低い声で呼んだ、あの美しい優雅な男も。

ピエールは心の中で、少年と初めて会ったあの冬の日から始まった、一つの物語が今、終わったことを知った。


それはありふれた物語、長い長い願いの時間だ。引き裂かれたような眼差しの少年が、ずっと胸に抱え込んでいた、たったひとつの――愛の記録だった。




2008.10..28
多分ピエールはスクアーロの左手首の包帯をリストカットの跡が醜く残っているからだと思っているというネタが入らなかった。精進します。

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