ありふれた愛に関する記録・2
オリジナルキャラが出てきますのでご注意ください。



二度目からは少年は一人でやってきた。
身につけているのはいつも黒い服ばかりで、頭以外はすべて黒尽くめのその姿形は、どこか喪服を思わせた。
まだ幼いとすら言える顔立ちなのに、目ばかりが光っていて、やせていて、低い声で名前をいい、右手で汚い字で名前を書いた。
少年はいつも長い時間滞在しているようで、二、三時間は建物の中にいることがざらだった。出てくる時はいつも名残惜しくて離れがたい、狂おしい感情を無理矢理に押し込めたような眼差しで、いま出てきたばかりの建物の、無機質な長い廊下を見つめていた。あまりにも離れがたく、何か大切な感情を置いてきてしまったような顔をしているものだから、三回目に少年がやってきたときに、ピエールはつい少年に声をかけてしまったのだった。
「今日は会えたのかい?」
少年は、今初めて、目の前にいる人間から放たれたろう言葉が、自分にむけられたことに気がついた、とでもいうように、のろのろと目線を上げた。薄いブルーの瞳は充血して赤くなっていて、それでようやく視線がどこに向いているのかわかるくらいだった。目の周りがほんの少し赤くなっていたが、薄い皮膚がすけるように色付いていて、少年の生命の力をそこだけが感じさせていた。それは少年が長い時間、泣いていたであろうことを意味していた。
「あ゛………?」
「会えたのかい?」
訪問者に訪問目的を聞くのは服務規程違反だった。ピエールはこの施設が、普通の会社の普通の施設でないことにうっすらと気がついていた。長い廊下の奥から時折聞こえる声は、動物の鳴き声などではないことも、暇な時間に本を読んでいると耳に入ってくるのだった。
「子供がここに来るのって、珍しいからね」
そう彼が言うと、少年は意味がわからない、という顔をして、ピエールの目を見た。
そして「子供…? 子供、かぁ…?」とだけつぶやき、一度廊下の向こうを振り返って、そうして出て行った。



少年は何度も何度も何度もやってきた。ピエールは自分の勤務の日に彼がくる頻度に驚いたが、それは彼の勤務時間だけではないことにすぐに気がついた。交代の時に確認する名簿には、彼の名前ばかりが連なっていた。少年は何度も何度も何度もこの建物にやってきていた。少年はまるで何か、神聖な義務かなにかのようにやってきて、なけなしの感情をごっそりと落として帰ってゆくのだった。
そのうちにピエールは、少年が髪を切っていないことに気がついた。そして同時に、少年の薄い肩に肉がつき、目ばかりが光っていた痩せた頬がうっすらと色付いて、骨ばかりが目立つ指先はしなやかに伸びてきていることに気がついた。彼は見るたびに成長していたが、暗い瞳だけはかわらず、むしろ一層陰鬱に、凄惨になってゆくようだった。
交代や休日の関係で一ヶ月見ない間に急にすらりと伸びてきた体を見てしまって、そのあまりの見事さに(そう、少年は玉が磨き上げられるように美しくなっていたのだ!)ピエールはつい「久しぶりだな。少し背が伸びたのか?」などと声をかけてしまったりした。
少年はピエールのことを覚えていなかったが、その年齢の子供なら、多少の照れ隠しで素直にそれに肯定など返さないだろう、だが内心嬉しいことに違いない――と思っていた彼の予想とは逆に、少年はひどく傷ついた顔をした。
「気のせいだろうぉ」とだけ答えるにとどまっていた。
時には声をかけるとひどくおそろしい目でにらみ返されたこともあった。まだ子供だと思っていたが、怒りを隠そうともせず、軽口を叩く彼をじっと睨み付ける少年の瞳は、ピエールを一瞬たじろがせた。
少年は普通の子供でないだろうこともピエールは気がついていた。普通に学校に行って勉強をしているとはとてもではないが思えなかった。そういえば、この施設に来る人間には、そういう雰囲気を身に纏った人間が時折混じっていたことに、ピエールは気がついていた。
少年は時に血の匂いをまとったままやってくることもあった。それは自分の匂いであり、相手の匂いでもあった。時々包帯を巻いたままでやってきたり、消毒薬の匂いを髪にまとわりつかせたままで来ることもあった。白い肌に傷を作ってくることもあった、そしていつもひどく疲れていた。少年の年齢は正確にはわからなかったが、まだ15歳かそのあたりだろう。本当ならもっと明るい光の下で、溌剌とした健康的な力を放っているはずのその体は、なのにいつも疲れていて、傷ついていた。



冷たい冬が過ぎ、年が暮れ、新年がやってきても少年はやってきた。傷が増えているような気がした。
二月に終わりに一度、少年は受け付けを出たとたんに貧血を起こして倒れたことがあった。ピエールは少年を抱き上げて、控え室のソファの上に乗せて毛布をかけたが、少年はその背の高さの割に驚くほど軽く、意識を失ったはずなのに軽々と持ち上がった。その軽さと体の薄さにピエールは驚いた。貧血の原因はすぐに知れた。抱き上げたとたんに濃厚な血の匂いが少年から立ちのぼり、触った頬がぞっとするほど冷たかったのだ。ピエールは思わず眉をひそめた。
小一時間もせずに少年は目を覚ました。目を覚ますと瞬時に体を起こしたが、貧血を起こしたらしく、またうずくまった。
同時にぐうっと腹が鳴ったので、ピエールは夜食用に持ってきていたインスタントのスープを作ってやって飲ませることにした。少年はしばらくそれを眺めていた。カップを両手で包んで暖を取っていて、冷めてからようやくそれを口にした。
そうやってスープを飲む姿は年相応の子供の顔をしていて、ピエールはなんだか胸が痛くなって仕方なかった。
「疲れているのかい?」
そう尋ねれば、少年は「そんなことない」と疲れを隠すことも出来ない口調でそう言うのだった。
「今日も会ったの?」
ピエールはいつからか、少年はここに誰かに会いに来ているのだということに気がついた。そうでなければとても理解できない、彼は本当にいつも疲れていて、青白い顔で、そしてとても悲しそうな、何かに耐えているような顔をしてここにやってきたが、数分かあるい数時間、ここで過ごしてから戻るときはいつも、さびしくてさびしくて仕方がないという表情を隠す事ができずにいたからだった。名残惜しく背後を振り返るのも一度や二度ではなく、施設から出るその一瞬まで、少年はいましがた出てきた場所にある、そこにいる誰か――そう、『誰か』だ――への慕情を、隠すことなどできずにいた。
「…なんでそう思うんだぁ?」
珍しく、少年が質問を返してきた。ピエールは、少年が自分に対して明確な意思を示してきたのは、これが始めてだということに気がついた。
「なんでだって? …そうだなぁ、言っても怒らない?」
少年は野生の動物のように他を寄せ付けなかった。今日は酷く弱っていたが、目だけはまだ底のほうから光っていた。冷たくすら見える瞳が、からっぽになっていたカップを包んでいる両手をじっと見つめていた。カップを包むその指が長く、細く――そういえばいつも、少年は片方だけ黒い皮の手袋をしていたことをピエールは思い出した。名前を書くときに書きにくいのか、いつも口で引っ張って、右手の手袋を外していたことも思い出した。たどたどしい右手の動き、それが妙に子供っぽかった。
「なんだよ?」
「そうだなぁ、――たとえば、君はいつもここにくる時に少し頬が赤い、名簿に名前を書くときもいつもこっちの」
そう言ってピエールは建物の中へ続く廊下を顎で指す。
「こっちのほうばかり見ていて手元の文字を見ていない。君の字はいつもあまり綺麗だとはいえないから」
「汚ねぇ字だってんだろう」
「うん、まぁ、そうだけど――手元の文字なんか見ていられないほど、君はこの中にいる『誰か』に会いたいのかな、って思って」
「なんでそう思う? 人じゃないかもしれねぇじゃねぇか」
「人じゃない? ――そうだね、他の何かの動物かもしれない。だけどモノとかじゃないだろうね――と僕は思うよ。君はいつも帰るときに入り口を見る。確認が終わって門を出る前で、必ず、必ずもう一度振り向く」
「…気がつかなかったぜぃ」
少年は小さくつぶやいた。
気がつかなかった? あんなに何度も何度も何度も、悲しげに寂しげに苦しげに、自分の体の半分が無理矢理もぎとられてしまったような目で、自分がいま出てきた建物を見つめているくせに? 気がつかなかったと? 本当に? 気がつかなかった? そんなもの、見ていれば誰だってすぐにわかる。すぐにわかる、そんな目をして名残惜しく、いつまでもいつまでも執着するものが――大切なものが、君の大切なだれかであると、そんなことすぐにわかるだろう? 君は気がつかなかったの?
「いつも疲れてるみたいに見えるけど、今日は怪我もしてるね。そんなに具合が悪いのに、そこまでしてここに来る理由が、誰かどうしても会いたい人がいるからだ、としか、残念ながら僕には思えないんだ。…想像でしかないけれどね」
「そう見えるか?」
「見えるから聞いてるんだけどな」
少年は顔を上げた。切れ長の瞳は今日もぼんやりと曇っていて目元が赤い。今日も泣いていたのか、入ってきたときにはもう少し目元ははっきりしていた――はずだった。少年はいつも曇った目をしてここを出てゆく。
「少し休んでゆくかい?」
「…いや、いい…」
少年は立ち上がろうとしたが、眩暈がひどいようで起き上がると同時に座り込んだ。
「時間があるならそこで横になっていくといい。残念ながら食べ物はさっきのスープしかないけどね。もっと飲む?」
「…いらない」
「あと二時間くらいで終わるから、家まで送っていこうか?」
少年はじっとこちらを探るようにうかがっていたが、そのうち押し寄せる疲労感に負けてしまったのか、あきらめたようにソファに体を沈み込ませた。毛布をかぶって体を丸めると、すぐに寝息が聞こえてきた。


2008.10.15

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