・1
ありふれた愛に関する記録・リピート・5
夜に起きるようになったのはいつからだろう。少なくともここ数年、起きない日もあるけれど、寒い季節はほぼ毎晩、起きる。
眠りはいつも浅い。深く眠っているとは思っているけれど、すぐに目が覚めるようになった。
夜も寒くないようにしてはいるけれど、布団を出るときはいつも勇気がいる。
トイレから出て廊下を歩くと、客間から灯りが漏れていた。
年が明けたばかりの家の中はとても静かで、外の音もいつもより少ない気がする。
ふすまの外に立って、さてどうしよう、と少し考える。声をかけるかどうしようかと考えていると、中から声がかけられた。
たぶん気がつく、客人はとても勘が鋭いから、こんなところで突っ立っていればすぐにわかるはずなのだ。
そう、そんなことは知っている。
……知っているのに、待っていた、のは、少し、勇気がいったから、かもしれない。
どうしてか、口元が緩んでしまう。なんだかうれしい。何が、と言葉に出来るかどうかは別として。

「ごめんなさいね。お邪魔します」

枕もとのスタンドのオレンジの明かりの下、畳の上に伸べた布団に並んで寝ている彼は、肘をついて目だけで何か用か、と問うてきた。首を振る、そしてそっと口だけで起きていたのかと問う。

「なにか目が覚めた。…ナナはどうした?」
「…年をとると夜中に起きてしまうものなのよ。寒いと、特にね。今日はちょっと食べ過ぎたみたい、トイレが近くて困るわ」
「……手間をかけてすまない」

彼は本当に、女性に対する意識の向け方が全然違う。彼等はいつからか私たちの国の人のように、何かと謝罪の言葉を口にするようになった。謝罪の言葉のその倍は、感謝の言葉を口にしているけれども。

「そんなことないわよ。毎年来てくれているでしょう、楽しみにしているのよ、いつも。たまにはいいじゃない、こういうのも、悪くないわ」
「すまなかった」
「貴方のせいじゃないでしょう。…どっちかといえば無理させたのはこっちだし。仕事大変だったんでしょう、スッくんがあんなにクタクタになってるなんて珍しいもの」
「…いや、俺がちょっと失敗したからな…、その始末をさせたからだ」
「そうなの…、がんばったのねぇ、ごめんなさいね。パパが仕事にかまけて日本に帰って来ないのが悪いのよ。年末年始に一人でいると退屈で退屈でしょうがなくって。自分だけさっさと孫の顔見にいっちゃって、悔しいったら」
「ああ…ツナヨシのところ、ガキが生まれたんだってな。女の子だって?」
「そうなのよ…、早く見に行きたいわ」
「そうだろうな。可愛かった」
「ザンくんは見たの?」
「見にこいとうるさいから行ってきた。まだ猿に毛が生えた程度だったけどな」
「そうなの? いいわねぇ」
「写真見るか? …ああ、先にちゃんと送ったといってたか。また撮ったのを持っていけといわれたのがあるのを、忘れていた」
「あら! うれしいわ、お願いね。私ももうおばあちゃんよ。びっくりしちゃう」
「ナナは今も綺麗だと思うがな」

さらっとそんなことを口にする。さすがはイタリア人というところかしら。

「うふふ、嬉しいわ。そんなことパパは言わないものねぇ。……あ、ごめんなさいね、声が大きすぎたかしら」
「起きやしねぇよ。…よく寝てる。少し薬使ったからな」
「薬?」
「睡眠薬。使わないと深く寝ねぇんだよ」
「…ああ、……そうね。眠り、浅かったわ、昔から。…熱、下がった?」

そういって、話をしながらもずっと、厚い大きな手のひらで、白くて綺麗な額を撫でているのが目に入る。異国の年末を過ごしに毎年やってくるこの二人の、片割れの銀の副官は夕べ熱を出してしまった。最近少し疲れてるんだぁ、そう言ってふらついたから、おかしいと思って手を握ったら、いつもひんやりしている彼の手が、とても熱くて――熱くて。火傷するんじゃないかと思って驚いて、差し出した体温計の数字はここ数年、見たこともないほどに高くて、私はもう、びっくりしてしまって。
そんなことになってしまって、私がおろおろするのにザンくんはとっても冷静だったのに少し、驚いてしまった。
私も冷静になれたのは、きっと彼の、落ち着いた声のおかげかもしれない。
「いつものことだから」と、そう言った。それはどっちの意味かしら。

ツナくんと昔なにかあったらしい、この黒い髪と紅い瞳の青年は、慣れた手つきで恋人の額の汗を拭いて、熱を計り、持ってきた薬を飲ませ、薬が効いて寝ている間は、静かに静かに本を読んでいた。一緒に大晦日の紅白を見るのにつきあってくれて、そのついでに他愛もない話をしていても、彼が目を覚ませばすぐに気がついて手を伸ばし、水を飲ませて着替えを手伝い、暖かく消化のよい食べ物を少しだけ腹に入れさせた。
その手つきは本当に恭しく、丁寧で、彼の本来の資質を私は感じ取ることが出来た。うちのパパだって、そんなに優しい手つきで看病をしてくれることなんてなかったのに――汗ばんだ髪を拭く手つきが少し、うらやましい、かしら。

「明日には元気になるから気にするな」
「そうね。喉、痛めるから少しは静かにしてればいいのに」
「なればいいがな」

そんなことを言う彼の目は、もう本当にやさしい淡い紅い色をしていて、見ているだけで胸の中になにか、温かくて懐かしい何かが満ちてくる。
額にかかる髪をすいて横に流してくれるその手つきもとても、優しくて繊細で、綺麗だと思った。

「よく寝てるわ」
「ああ」
「こんなにいい顔して寝てる顔、見るの初めて。…寝てても綺麗ねぇ、スッくんは」
「それしかとりえがねぇからな」
「……ふふ」

なんだか知らずに口元が緩んでしまう、気のせいではなくて、どうしても。褒めているんでしょう、それは。素直じゃないのは今に始まったことじゃないのは知ってるわ。だってスッくんがいつも言ってたもの――その通り過ぎて、初めて会ったときは驚いちゃった。

「今のザンくんの顔、スッくんに見せてあげたいかなって思ったの。…それとも、もうそんなの知ってるかしら」
「さぁ……? 気がついてねぇかもしれねぇなぁ、こいつは」

ああ、赤い瞳が少し、枕元の光を反射してオレンジ色。なんだろう、ろうそくの光みたいで静かで――小さいけれど、揺れている。

「そうかもね。…本当によく寝てるわ」
「俺がいるからだろう」

――なんて、さらっと言うのね、ザンくんったら。のろけてる自覚はないんでしょうね? 
口元を見ているのに気がつかれて、赤い目が何か? と問うてくる。ああ、昔スッくんに聞いたとおりだわ、案外ザンくんって感情がわかりやすい子、なのね。今自分が何を言ったのか、気がついていないのかしら――わかっているから言ってるのかしら。


ツナくんは大学に入る前から何度もイタリアに行っていた。大学はあちらの学校に入ると言って家を出てしまって、その替わりのようにして、この二人は毎年、クリスマスを過ぎてからからの年の最後から、お正月の松が取れるまで、遠い国からやってくるようになった。
日本の年越しをしたいから、最初はそう言って何をしても楽しんでいたこの二人の、本当の理由は私のことを心配してくれてきているのだ、ということには気がついていた。仕事の話は聞いても答えないし、聞くなとパパにも、ツナくんにも言われているけれど、この時期に日本に来るために仕事を詰めているらしいことはすぐにわかった。無理しなくてもいいのよ、そう言っても二人とも、別に気にしなくていいと答えるけれど、そんな嘘が見抜けない母親なんかいないってことを知らないのね。

あいつ母親が懐かしいんだぁ、ナナがマンマだったらいいって思ってるかもしんねぇんだぁ。
小さいときにマンマに捨てられてっからよぉ。
ちょっとだけ、分けてくれねぇかなぁ。ツナヨシのぶん、少しでいいからなぁ。

そんなこと言ってるくせに、スッくんだってお母さんよく知らないんだって、後でザンくんも同じこと言ってたのよ。おかしな話ね。
よく似てる、そう思ったのは気のせいじゃないのかしら。

「よく寝てるわ。…こんなにちゃんと、寝てるの顔見たの、初めてかも。…昔は私が声かける前にいつも起きちゃって、ちゃんと寝てる顔なんて、見たことなかったのよ、本当に。……綺麗だなぁって思ってたけど、やっぱり可愛いわね。子供みたい」
「まだ中身がガキなんだろ」
「そうねぇ、…そうかも」
「あん時は世話になった。こいつもとてもよかったと言ってた」
「そんなにたいしたこと、してないわよ?」
「今でもときどき、思い出したように話に出てくるぜ」
「そんなにお世話した覚えなんか、ないわよ」
「そうでもねぇと思うぜ」

昔、――そう、かなり昔、まだツナくんが中学生のときの秋、パパがスッくんを連れてきたことがあったの。ツッくんは全身怪我してて、傷だらけで、松葉杖ついていて――なんでそんな怪我してるのかわからないけれど、世話をしてくれ、って言われたことがあったのよね。……もう、だいぶ昔のことだわ。

「かえって気疲れさせちゃったのかもしれないって思ってたけど」
「そこまで気が回るようなタマじゃねぇ」
「パパが無理言ってたのよね――私、知ってたの」
「それは仕方ねぇことだ。イエミツの、それが仕事だ。――ナナ」

そういって目をそらす。
詳しい話になるといつもそうやって目をそらす、ザンくんもスッくんも、
そうやって話をそらすときのしぐさまで同じなんて、――なんだか。おかしいわね。

ザンくんもスッくんも、本当に手のかからないお客さんで、自分のことは自分でするし、何でもできるし何でもすることが出来た。
スッくんはとにかく駒みたいにくるくる動き回って何でもしてくれるし、ザンくんはあれでとっても手先が器用で、料理を教えたらすぐに出来るようになったのには驚いたわ。最初の年は何にもできなくて、いくつか料理の方法を教えたら、次の年にはめきめき腕を上げて上手になっていたのにはちょっとびっくりした。一度パエリアをホットプレートで作ってくれたときはあまりのおいしさに驚いてしまって、残ったのを近所の人におすそ分けしたくらいだったの。もちろんものすごく評判がよくて、聞いたレシピで集まりの時に作ったら、もう凄いわたしの株が上がってしまって困ったくらい。
二人がやってくると、まるで私のほうがもてなされているみたいな気分になる。二人は本当にいいホストで、若いツバメを飼ってるみたい――そんな気分になったりして、ちょっと楽しい気分なのよね。そんなところも、楽しみにしてるって言ったらどうかしら?

「あんまり話してると目が覚めちゃうかしらね。…ザンくんもちゃんと寝てね?」
「大丈夫だ、気にするな」
「ふふ。元気になるといいわね、スッくん。…初詣は二日にしましょうか?」
「そうだな、…起きたら考える。……何か鳴ってないか?」

遠く、静かな空の下で、低く、遠く鳴る音―――ああ、除夜の鐘の音。

「除夜の鐘が鳴ってるのね。……少し遠いけれど、お寺に鐘が出来たのよ。ずっと作ろうとしてもらってて、いろいろ寄進してもらってたんだけど、今年ようやくね。この年末に初めて撞くことになったんじゃないのかしら」
「そうなのか? ……もしかして、行くつもりだったのか」
「そう思ってたけど、寒いもの。風邪引いたらいやじゃない?」
「――悪かった、こいつが寝込んだからだな」
「いいわよ、別に。そんなにどうしても、ってわけじゃないし。よかったら、来年また行きましょう?」

そんなふうに、約束を取り付けたがるのは年のせいかしら。
ザンくんもスッくんも、あまりそういうことに簡単にイエス――とは言わない。

「……鐘をつくのか?」
「そうよ。お布施を入れて、ゴーンってつくの。気持ちがいいわよ、きっと」

あ、目元に皺がある。
……そうね、ツナくんもお父さんになったんだもの。
ザンくんももう、いい年なんだわ。私もおばあちゃん、だし。

「さて、じゃ寝るわ。おやすみなさい」
「おやすみ、ナナ」
そんな声も低くて優しい。本当に、いい子たちだわ。


すうすうと寝ている白い額、それを撫でる大きなてのひら。
頬づえついてる左手の薬指に、光っていたのは銀のリング――
それに、私は気がつかないと思っていたのかしら。
スッくんのほうは右手の薬指だった。
スッくんは左手が手首の先からないから、だから右手なのね――そう気がついて。

明日は二人にお年玉でもあげるべきかしら。
ご祝儀、という意味では同じようなものかしら――ねぇ?



2009.4.18(完成は2009.1.19)
奈々さんとこの二人は会えば仲良しになると思います。ここまで捏造するにもほどがある…(笑)。
そして完成してから三ヶ月寝かしてたという…なんてこったい!
だらだら続いていたこの話もこれで一段落。
微妙に「まだ見ぬ世界の処し方を」と続いているようです。
捏造もいいとこだ!

Back   →
inserted by FC2 system