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ありふれた愛に関する記録・リピート・1
少年は人に触れられたことがなかった。

彼の母も父も少年を抱きしめてくれなかったし、少年を撫でてくれなかった。
頬を撫でててよい子だ、と言ってくれなかった。
肩を撫でておやすみ、と言ってくれなかった。
背中を撫でてこわくないよ、と言ってくれなかった。
誰も、誰も少年の頭を撫で、肩に触れ、髪に触れ、頬に触れなかった。

だから少年は、『彼』に肩を触れられたときにたいそうびっくりしたのだ。
彼の手のひらが驚くほど冷たくて乾いていたからだった。本当にそれにびっくりした。
少年に触れてきた手はどれも、たいへんに暖かくて湿っていたのだ。そんなにさらさらとした乾いた手に触れられたのは、少年の短い人生の記憶のなかをいくらさぐっても、そのときが初めてだった。

「御曹司ぃ、あんたすげぇなぁ、いい筋肉してるぜぇ」

彼は舌ったらずの妙に高い声で少年に話しかけてきた。驚いた少年は彼の手を振り解いて叩き落した。しまったと思ったが、どうすればいいのかわからなかったので、そのまま走って逃げてしまった。そう、少年は逃げてしまったのだ。彼の手のひらが、あんまり冷たかったので。

彼は少年と同じ学校の、中等部の生徒だった。二学年年下の彼は、少年をボンゴレの園遊会で見初めたらしい。こっちは全然気がつかなかった。そんなところまで気を回したことなどなかった。知らなかった。彼の姿かたちは、この国ではたいそうめずらしく、見ればたぶん、少年は覚えていただろうが、だがしかし、少年は彼を覚えていなかった。彼は少年を見た、と言っているのだから見たはずなのだ。彼はそれはそれは熱っぽく、まるで雷を受けたか天啓を得た古の聖人かルネサンスの画家のように、少年にぼうっと見とれていたのだから、いくらなんでも気がつくだろうはずだった。気がつかなかったのは、少年に余裕がなかったからだった。
三日以後には彼は少年の存在を調べて目の前にやってきた。少年は彼のことなど知らなかった。彼の顔も名前も知らなかった。彼は自分の名前を大声で怒鳴った。うるさかった。大変大変うるさかった。あまりに大声でがなりたててきたので、名前が聞き取れなかったくらいだった。
スクアーロ――鮫――というのだけはわかった。

「俺の名前はスペルビ・スクアーロだぁ!!」

すべての単語に濁点がついているような話し方だった。銀の髪と細い手足だけは目に入った。けれどそれだけだった。それだけ。彼のことはそれしか見えなかった。そんなふうにして御曹司と称される少年に言い寄ってくる人間は多かった。学校の中でも外でも多かった。だから少年はそんなことはすぐに忘れた。忘れることも仕事だった。嫌なことやどうでもいいこと、くだらないこと、関係ないこと、そんなことはすぐに忘れるに限る。そう、忘れるに限るのだ。
覚えていたいことはどんなことをしても絶対に、覚えているものなのだから。

だから少年は覚えてしまった、彼の手の温度を覚えてしまった。彼の手の冷たさを、彼の手が乾いていたことを、彼の指が長くて細くて骨ばっていて、関節が大きくてしなやかで、手のひらの大きさを覚えてしまった。彼の声と一緒に覚えてしまった。覚えてしまったのだ。

「御曹司ぃ、ほんとあんたすげぇなぁ。どうしたらそんなに腹に肉つくんだぁ?」
そういいながら彼は遠慮なくべたべた体に触ってきた。最初はそれに驚いていたのに、今は勝手に体を触らせることを前ほど嫌ではなくなっていた。その手が冷たくて、乾いていて、無遠慮そうに触れているように見えても、その実その手は彼の体を大切に、いとおしさを含ませていることを、少年はもう知っているからだった。
「知らねぇよ。貴様は本当に蚊トンボみてぇだなぁ」
「言うなよ! 気にしてるんだぜぇ!」
「てめぇそんなに飯食ってなさげに見えねぇのに、なんでそんなにガリガリなんだ?」
「だよなぁ? 御曹司みてぇにいいもん食ってるわけじゃねぇけどよぉ、学校来るようになってから飯は食ってるぜぇ?」
「ああん?」
彼はそんなことを言って首をかしげた。長い手足は本当にひょろひょろしていて、その間をつなぐ関節は薄くて固かった。肩と背中にちゃんと筋肉が張っているのに、腹は驚くほど薄かった。彼の体がそんなふうになっていることを、少年はもう知っていた。知ることを彼はゆるした。
「肉も魚も食ってるぜぇ!」
「安い脂使ってんだろどうせ」
「…そんなに違うもんなのかぁ?」
「あたりめぇだ。おまえ剣士になる気あるんなら、もっといいもん食え。いい肉を食わねぇといい筋肉はできねぇ。いい筋肉がいい力を生み出す…それくらい知っとけ」
「ううん…? そうなのかぁ?」
「栄養学は頭に入れておけ。いざというときの踏ん張りが違う」
「へぇ〜、そうなのかぁ。御曹司は何でも知ってるなぁ!」
惚れ惚れとしながら少年の体を触りまくる彼の言葉は何故かいつも賞賛、普段ならおべっかにしか感じないのに、彼の言葉は素直に耳に入って少年を気持ちよくさせてくれる。そんな声を聴くのも悪くない。
彼の言葉には嘘はない、本当に嘘は言わない。言わない、のではなくいえないのだろう、そういう質なのだ。まっすぐで飾り気がなく、真剣で傲慢で欲に素直に身をさらす。そういう人間は努力を惜しまない、結果を恨まない、自分の欠点を知っていて、それを克服することや補うことを知っている。
「すげえな、そういうのってやっぱ勉強してんの?」
「おまえ学校で何習ってんだ? そこでやってることと同じだろうが」
「ううん?」
意味がわからない、と頭をかしげるしぐさは子供のようで、これが彼の癖らしいことに少年は気がついていた。わからないことは人に聞くことを厭わない、知らないことを恥だと思わないのは成長する人間に共通する特性。
「化学の授業でやらなかったか、アミノ酸の合成と分解。実験はやったか?」
少年はたんぱく質の分解のしくみはならったかと問い、酸素の結合の有無を聞き、それがどうやって人体の生成につながってゆくのかという道筋を彼に説いてみせた。彼は大きな青めいた銀の瞳をきらきら、というよりもギラギラと光らせて、少年の講義を水を吸って咲く花芽のように聞いていた。彼は案外と飲み込みが早い、ということに少年は気がついた。馬鹿だと思っていたがそうでもない、たぶん今聞いたことは全部覚えているだろう、その視線はまっすぐで真剣、身につける技の一つとして、少年の講義を聞いているだろうことは伺い知れた。
「赤味の入ったいい肉を作る方法は人間も牛も同じだ。わかったか?」
そう言って講義を締めれば彼はほう、とため息をついてそれこそ、うっとりと少年を賛美したがるような目で見上げる。
「すげぇ…ものすげぇよくわかった…。なんだか今までやってたつまんねぇ授業はなんだったんだ、ってカンジだぜぇ…」
「栄養学は頭に入れておくにこしたことはねぇからな。サバイバルの方法もそれに通じてる。お前は剣を使うんだろう、だったら人体の生理学は学んでるよな?」
「あー、解剖図は眺めるけど…」
「筋肉の流れだけじゃなく、神経の流れも頭にいれておけ。それと東洋医学も参考になる。言ってることは同じだが、別の見方を知っておくとつかえる用途は格段に増える。判断する要素が増えることは悪いことじゃねぇ」
「わかった」
一言で答える彼の目がキラキラしている。人にものを教えるのは嫌いではない、それが自分をたたえているのならなおさら。少年は妙に先生ぶって話をしていた自分が急に恥ずかしくなって口をつぐみ、彼の顔を見た。彼はじっと少年を見ていて、自分を見返してきた少年に、なんだ、と目で訴えた。
「あんたの目ってすげぇ綺麗だなぁ」
そんなことを言われたのは初めてだったので、少年はぽかんとした顔で彼を見た。何を言い出すのだ、このガキは本当に、おかしなガキだ――そんなこと、言われたのは初めてだった。本当に。
「すげぇなぁ、色が少し、変わるんだなぁ…今日はずいぶん浅い色、してるんだなぁ…血の色、みてぇ…」
うっとりと囁く彼の声に、恍惚とした表情が、混じり始めたことに少年は気がついた。赤を見て欲情しやがってるのか、人並みに――いや、別の意味で、「人並み」に?
「血を見るのが好きなのか?」
そういう嗜好の人間は案外多い。刃物を得物として使う人間には、それを見ることで性的な快感を得る人間が多いらしいことも知っていた。確かにそれは人を高揚させる作用も、恐怖させる作用もあるだろう。少年は前者だった、このガキもそうなのか?
「別に好きじゃねぇよ。綺麗に切れたときは綺麗だなぁとは思うけどよぉ…染みはとれねぇし、冷えると臭い」
冷静な返答にすこし鼻白む。肌も睫も髪も白いこの男に、赤い血は大層映えるだろう、とかすかに思った。
「でもオマエの色は綺麗だな。…宝石みてぇ…」
うっとりと眺めてくる、そんな瞳のほうがなんだか。つられて少年も彼の目を見れば、浅い青の入った灰色の瞳はそれこそ、宝石というよりは凍った湖面の色に似て、透明でうつくしく、冷たくてしんと固く、見ていると吸い込まれそうだった。そこに自分が写っているのもどこか不思議、お互いでお互いの目の中の瞳を見ていると、どんどん顔が近づいて、焦点さえ合わなくなってくる。
先に少年のほうがその距離に気がついた。まるで口付けする寸前の姿勢のよう、そう思えばなんだか急に、動悸が激しくなってくるような気がするのは、どうしてなのかを少年はわからなかった。知らなかったから、そんなことを何も、何一つ。
「あれ…色、が」
彼の声が肌に触れるほどに近くでつむがれる。あれ、と思う間もなくそこに触れてしまった。
待っているかのように感じた、その薄い唇が動くのを見ているうちにそう思った。だからした、触れてみた。
そこも冷たいと思ってたのに、暖かかった。――あたたかかかった。
ちゅ。
離れた音が耳に入って、そうしてようやく彼の銀灰の瞳に写っている自分の顔が、視界から消えた。彼がまばたきをしたからだ。
「………へ?」
何をされたのかぜんぜん、わかっていない顔がなんだか、妙にアホっぽくて、つい。

少年はもう一度、今度は目を閉じて彼の唇に触れた。鼻のあたりの皮膚に、長い睫が触れるような気配がした。
目を閉じたな、そう思った少年は、棒みたいな腕を両手でつかんで、自分に引き寄せた。
彼の腕は少し冷たかったが、触れているとすぐに汗ばんで熱くなってきて、それが少年にはどこか、たのしくてしかたないものになっていた。
だから続けた、そのまま。
唇が唇に触れるだけでいられる限度を超えるまで、細い体をもっと強く、抱きしめてしまうようになるまで。




それは始まりで、それが開始の合図だった。長い長い、記録の始まりだった。
ありふれた愛の記録の、その最初の書き出しだった。






2008.12.30〜1.14 
まだやるのか! という感じでまたやります。しばしおつきあいくださいませ。
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