MyFirstTime・3
祝宴はかなり長く続いた。最後に出されたドルチェは流石にろうそくをたてたホールではなかったが、ベリー類をたっぷりとちりばめたルビーレッドのフィリングを乗せられたパイケーキを切り分け、振る舞えばいよいよ宴はたけなわになった。レヴィは飲みすぎたのかすでにテーブルに突っ伏して舟を漕いでいるし、ベルは高いワインを惜しみなく口に出来たのが嬉しいのか、やたらとマーモンをからかって遊んでいる。合間にスクアーロにもちょっかいを出す。スクアーロは少しばかり沈みがちなのが珍しいが、しかし機嫌はよさそうだ。
肝心のボスといえば、ルッスーリアの作ったケーキがことのほか気に入ったようで、甘いだのなんだの文句を言わずに綺麗に切り分けて口に運んでいる。ルッスーリアもご機嫌で、ケーキの薀蓄をスクアーロに語っていると、思い出したようにボスがその中に質問を差し挟んでくるのが嬉しくて仕方ないらしい。
彼等のボスは去年と比べて、圧倒的におとなしく、誕生日の宴の祝福を受けているように見えた。少なくともスクアーロにはそう見えた。
こんなにおとなしいボスを見るのは久しぶりで、それもなんだかスクアーロには恐ろしかった。彼の主はなんでも感情を発散しているように見えて、その実殆どの意思を自分の中に溜め込んでしまう質だった。だから爆発する力が半端なく強く、時になにもかもを壊してしまう。
一年前の、――あの宴を思い出す、そしてその間にあったことを思い出す。妙に平和に思えた、いや、それ以前に比べて仕事が増えて忙しくなったとしても平和だった。ボスがいて、彼等の主人がそこにいて、一時期幹部以下十数人まで減った部隊を再編して、後継者争いを含め、表に出なくなった九代目の健康を疑うボンゴレ配下のファミリーの動向に気を配り、三度目の叛乱を疑う古参の幹部の容赦ない詮索を振り切って、彼等はそこにいて、彼等のなすべきことをし続けていた。
そうやって、彼等が何もなく、野望を表に出すこともないままに、一年がようやく過ぎていったのだ。
ただ彼等は祝う、主の生誕を祝福する。彼が世界の誰かからも望まれていなくても、主が世界のなにをも望んでいなくても、彼等には主の生誕を祝福する理由がある、祝いの言葉を述べる理由はある、それぞれに。
彼等だけは誰よりも、彼の誕生を何よりも祝い、何よりも喜び、何よりも待ち望んでいたのだ――彼の偽りの父よりは、ずっと。
主はそれを、この部隊の隊長として、主として、受け取ることを厭うようなことをしないだけなのだ。
その一点だけでも、彼等があるじの誕生を祝う意味はある――十二分に。

毛布を引っ張ってベルにかけると、マーモンを押しつぶす勢いで抱きしめている王子は、むにゃむにゃいいながらソファの上で体を伸ばした。
ブーツくらいは脱がそうかと思ったが、ふくらはぎを締めるリボンはきつく結ばれていてほどきにくく、弄っていると起きてしまうのが面倒なのでそのまま肘掛に放り投げた。
「なにすんだぁ、王子の、足、にぃ…」
「はいはい、毛布くらいはかけてなさいね」
食器を片付けながらルッスーリアは肩をすくめる。談話室は静かだ。レヴィは完全に潰れて床で寝ている。そっちにも一応毛布はかけておいた。なんとか自分の足で部屋に戻れそうなので、ここで寝ているメンツを残してルッスーリアはもう電気を消そうとして、……ちょっとだけ、ここにいない二人のことを考えた。
「どうしているかしらねぇ…」
ここ二三日、スクアーロは顔に青痣をつけてもいないし、唇を切ってもいないし、鼻血も出ていなさそうだった。頬が赤かったり、肩を痛そうに回していたりはしたけれど、それくらいなら毎日の鍛練や仕事でもよくあること。打撲や切り傷、打ち身くらいなら仕事のうちだと思うけれど、顔を殴るとか頭に怪我するとかは違うわよね。スクアーロにそういうことが出来る人間なんて、この世にそれほどいないことをルッスーリアは知っている。それをやってなお、まだ生きていることが出来る人間など、おそらく数える程度しかいないだろう。
そして今は彼は、スクアーロに無条件でそれをすることが出来る人間に命じられて――ここから立ち去っているのだった、もうずいぶん前に。
「まぁあの子、あれで結構ザルだから二日酔いの心配はないと思うけれど…」
問題はそれ以外のことだったが、白い血であれば、いくら流されてもなんら問題はないだろう、とルッスーリアは思った。
赤い血であれば少しは問題だが、まぁ縫うようなことにならなければ大丈夫だろう。スクアーロは血の気が多い子だもの、今晩は酒が入っているから血行はいいはずよねぇ――そう思った。





「来い」
一言だけ言われて腕を引かれた。まだ手にしていたフォークをかろうじてテーブルに置くことが出来た。残っているドルチェを恨めしそうに見ると、ルッスーリアが目でそれに答えた。大丈夫、とっておくから平気よ。ああ、明日ちゃんと食えるといいなぁ…と思いながら、スクアーロは食い込むほどの力で腕を掴む主にずるずると引きずられて、部屋を出るように促される。
「待てよ、ちょっと、…その」
「黙れ」
ザンザスは赤い目を光らせてスクアーロを一瞥した。そうして手を引っ張り、脇に手を差し込まれた。何を、と思う間もなく、上半身を担がれる。
「う゛ぉおおお゛い゛ぃ!」
「遅せぇ」
床に落ちる前に髪ごと抱え込まれて、荷物のように運ばれそうになる。
「待っ、てっよ、下ろせよボス…ッ! そんなんしなくても歩け…」
「静かにしてろ」
強い酒を飲んでいるはずのザンザスの足取りは乱れない。対してスクアーロは、頭を下げられたせいで急に酔いが回ってきたような気がしてきた。ザンザスは機嫌がいいらしい。ここで暴れるのはあまり利口ではなさそうだ。スクアーロはしぶしぶ身体の力を抜いた。
「…ボスさんがいいならいいけどよぉ…」
ザンザスは喉の奥で笑ったようだった。なんだ、ひどく機嫌いいじゃねぇか。
ザンザスは部屋のドアを足で蹴り飛ばして開けると、すぐに鍵をかけた。その音が耳に入ってスクアーロは酔いがすっと醒めるのがわかった。何をされることになるのか、――まぁ少なくとも服が無事であることを祈る羽目になることは確かだ。
彼が鍵をかけたということは、彼か自分が鍵を開けなければこの部屋のドアは開かないということだったし、明日の朝自分がその鍵を開けることが出来るかどうかということは、この先の行為を考えれば非常に謎だった。この部屋の主だけがドアを開けることが出来るということなら、自分は多分動けなく可能性が高くなるだろう。
荷物のようにベッドに落とされ、さて手が出るか足が出るかと身構えていると、隣に何かがどさりと落ちた。目をあけるとザンザスの上着が脱ぎ捨てられていた。スクアーロはそれを見ると反射的に立ち上がり、そのまま服を放り出したままにしそうな主の後から服を拾ってソファにかけた。
「ちゃんとハンガーにかけておけよ、皺になる」
「熱い」
「飲みすぎたのか?」
「シャワー浴びる」
そういいながら服を脱ぐ主の背中に回ってシャツを脱ぐのを手伝い、ベルトを手渡され、膝をついてブーツの紐を解く。両手にどんどん服がたまってくる。それらを一端ソファに下ろして後をついてゆけば、最期の一枚をランドリーに放り込んだ背中がガラスの向こうに消えた。
幾分ふわふわした気分のまま、(幸いになことに酔いはまだ覚めなかった)スクアーロは主の衣服を整え、上着とズボンとネクタイをハンガーにかけ、シャツの皺を伸ばしてランドリーケースに入れ、ブーツのほこりを払ってベッドの脇に置いた。風呂上りには水だろうか、それともまだ飲むつもりか…いやいやシャワーを浴びたのだから寝るつもりなのだろう…などと思いながら、自分の上着も脱いでネクタイを取る。何をするにしても被害は最小限に済ませたい、そんな考えがあることに苦笑する。ブーツを脱いでベッドの脇に置き、さてどこまで脱いだほうがいいだろうかと思ったら、ガラスの向こうから呼ぶ声がした。
「なんだぁ」
「おまえもこい」
「へぇっ?」
「甘い匂いさせてんじゃねぇ」
風呂場に連れ込まれるのは久しぶりだな、とスクアーロは思った。裸で殴られることはあまりなかったが、湯で温まった肌に血が滲むと止まり難いのも事実だ。それになんというか、ヘンな話だがザンザスは人の身体を洗うのが好きらしい。
スクアーロが慌てて服を脱いで浴室に向かうと、すでに湯を張ったバスタブの中にオイルを垂らしていたザンザスが中から彼を手招いた。軽く汗を流している間にも、妙に機嫌がいいザンザスは湯船の中でゆったりと身体を伸ばして目を閉じたままだ。
髪を洗おうと湯をかけたところで背後に気配があり、はっと顔をあげるといつのまにかザンザスが立っていた。
匂いを落とすために湯で流すだけにしようと思っていたスクアーロの髪に、ザンザスの指が入ってくる。
「頭さげろ」
普通の顔をしてそんなことを言うものだから、スクアーロは自分が酔っ払ったあまりに夢を見ているのではないかと思った。
今日はボスの誕生日だよな? 何でこんな機嫌がいいんだボスさんはよぉ?
混乱するスクアーロの頭に湯をかけ、シャンプーを手にとって泡立て、それで頭皮をそっと撫でる。
ザンザスはスクアーロが思っていたよりもずっと繊細で丁寧な手付きで髪の中に手を入れ、長く濡れて垂れ下がる銀の糸を指で梳いた。長い指が頭を撫でるのがなんだか夢のようだ。酒に酔っていたことをいまさらながらにスクアーロは思い出し、ザンザスは寒くないのかと思った。
ザンザスはそうやって、ひどく繊細に、丁寧にスクアーロの髪を洗った。機嫌がいいのが逆に恐ろしいほどだ。ザンザスの使うシャンプーの香りが髪にしみこんできて、こっちのほうが甘くないのか、とスクアーロは思った。香りよりも、指先が。
シャンプーで長い髪を毛先まで丁寧に洗い、湯をかけてシャンプーの泡を完全に流す。それからラックの中にある無香料で無添加のコンディショナーを取り出し、一回分を手にとって両手を摺り寄せて伸ばし、暖めてから髪に引き伸ばした。これは地肌にあまり触れないように髪の中にしみこませるように髪を数回撫で、毛先まで届くほどではないのでもう一度コンディショナーを出す。それを同じように手のひらで伸ばし、そうして髪に伸ばし……慣れているわけではないが、一つひとつの動作はひどく丁寧なのだ。
スクアーロの髪を、本当に大切に、丁寧に扱い、指で梳きながら髪の先までしっかりとコンディショナーをすり込んで、それからまた湯を丁寧に頭にかけた。地肌を指先が辿る、その指先がスクアーロの頭皮を撫でた。頭蓋骨を大きな手のひらのザンザスに預けるのはどこか恐怖でもあり、歓喜でもあった。ザンザスの手のひらの熱源が今ここで炎を纏えば、骨を溶かすことなど簡単だが、スクアーロはそれを怖いとは思わなかった。彼が怖いのはザンザスの指先が丁寧に頭皮を撫でること、シャワーの湯が髪を痛めない温度に調節されていること、そしてその指が耳たぶや首筋の髪を、洗うために丁寧に梳き上げることだった。
洗い終わるとザンザスはスクアーロを湯船に突っ込んだ。さっきまでの丁寧な手付きはどこにいったのかと思うほど乱暴に。頭から湯船に突っこまれたスクアーロが、湯の中から顔を上げて見れば、なんの躊躇もなく、ザンザスが中に入ってきた。
「詰めろ」
「なん、で入ってくる、んだよ!」
「ここは俺の部屋で、俺は風呂に入ってんだ。それをオマエに指図される必要があるか?」
「あんたが来いって言ったんだろう!」
「だったら、別に問題はねぇな」
なんでこんなところでいい年した男同士で風呂に膝つきあわせて入らなくちゃいけないんだ!
スクアーロはそう思ったが、詰めて入ってきたザンザスの態度にさらに驚いた。ザンザスは膝をかかえて座り込んでいるスクアーロの足首を掴み、そのまま自分に向かって引っ張ってきたのだ。
「ひっ」
「色気のねぇ声だなぁ」
「ちょ、アンタ、なんでこんな格好するんだよ…!」
「ゆっくり出来るだろ?」
出来るもんか!
ザンザスはその引っ張った足を自分の腰の脇に置き、反対の足も同じようにして拡げて自分の腰の外に置いた。ザンザスの腰を挟むようにして足を広げさせられる。今度はにじり寄ってきたザンザスが、足をざばりと湯から出した。おいおいこんな格好でけっとばされたらマジで腹に入る、死ぬ! とスクアーロが身を固くすると、意に反してザンザスの膝はスクアーロの体の脇に潜り込む。がっと足首が腰を押さえ込んだと思ったら、ぐいっと体を引き寄せられた。
「う゛ぉおおい!」
「少しは色気のある声が出せねぇのか」
「な、に言って、」
太股が触れ合う。湯の中で近づく体はなんだか妙に遠い。裸なのに、ベッドの上よりは少し距離があるような気がするという不思議。
お互いに足を開いて、その間に相手の体をはさみこんで向かい合っているという、なんだか妙に珍妙な姿勢で、向かい合わせになってバスタブの中で顔つき合わせているなんて、なんだか本当に不思議な姿勢だった。
「せっかく俺がおまえを見ながら風呂に入ろうとしてるってのに」
「なんだよそれ…、…趣味、悪いぜマジで…」
背中をバスタブの曲線に沿わせて、ザンザスが膝を立てて腰を前に突き出してくる。
おいおい、そんな目の前にそんなもん見せつけるんじゃねぇ! と言いたいくらい、その、局部が近い。
湯船の中に視線を落とすわけにいかず、スクアーロは仕方なく視線を上げた。洗った髪を一まとめにして背中から湯船の外へ垂らした妙にバランスの悪い姿勢で、少し首を傾けて、目の前にいる男を見る。流石に自分もそんな格好をするわけにはいかず、立てた膝はそのままに、バランスを取るために少し体を動かした。
ザンザスは本当に言った事を実行するつもりらしく、妙にリラックスした姿勢で、バスタブのふちに肘をかけ、目の前にいるスクアーロを観賞する体勢に入った。悪戯を思いついた子供のような目でスクアーロを眺めている。
何がおもしろいんだろう、ボスさんは。
ザンザスはなんでそんな顔して自分を見ているのか、スクアーロにはさっぱりわけがわからなかった。
洗った髪が乱雑に額にかかっているのをぼんやりと眺める。形のいい額にもいくつか凍傷の跡が残っていて、色の変わった皮膚の境目が、湯で温まったせいで一層くっきりと浮かび上がって見える。ザンザスはいつも無表情に近いむっつりとした顔をしていることが多いのだが、もしかしたらそれは、案外童顔に見える自分の顔を、少しでも大人っぽく見せるためにやっていることなのではないのかと、昔そう言ったことがあるな…ということを、スクアーロは思い出していた。

基本的にスクアーロは昔のことをあまり思い出さない。今の刺激を受け止めるに精一杯だったこの一年、そんな余裕もなかったせいなのかもしれない。ザンザスと過ごす初めての季節が、とにかくもう嬉しくて嬉しくて嬉しかったからだ。主が生きている、というそれだけでの時間。それだけでも、スクアーロにとっては天国と地獄の差があった。

争奪戦の後始末は半年の本部への幹部の出向と、ボスのヴァリアー本部への軟禁、それといくつかの処遇の変化、組織の位置付けの移動、隊員の補充のないままの任務…と、彼ら全員が覚悟していた地獄への切符ではなかった。
結局のところ、争奪戦の詳細は日本で行われたせいもあって、いろいろな事実をすべて隠匿したままで終わってしまったのだ。ザンザスの意向を明らかにするには『揺りかご』を蒸し返さなくてはならず、そうなるとその事件そのものを秘密にしていた意味がなくなってしまう。ゴーラ・モスカの機密も含めて、内容を明らかにすることは出来ず――九代目が顧問の知らぬ間に入れ替えられていたことも含めて――結局は、八年前に九代目が、外国に留学に行っている――と対外的に言い出した言い訳の続きとして、話をつなげるしかなかったのだ。

そうして過ごした一年、彼のボスが何をどうやって自分の中で折り合いをつけたのか、スクアーロにはよくわからない。鮫に食われかけた怪我は治るのに二月もかかり、リハビリや整形手術はそれはそれは辛かったが、しかし全部終わって初めてザンザスの元にもう一度立って、体中をべたべたを触られて殴られたとき、それはそれは嬉しくて嬉しくて、らしくなく笑ってしまってまた怒られて殴られて――あとはもう、困ったことにただ、嬉しくて嬉しくてしかたなくなってしまったのだ。
ハードルが低くなっている自覚はあった。二回戦って二回負けた。今度こそ死ぬと思っていた。なのに生きている、彼も自分も。
屈辱も惨めさもある。もちろんそれはある、たっぷりと。だがそれを上回る喜びが自分の中にあって、スクアーロはどれほど自分がザンザスに飢えていたのかを、それからずっと感じている。もちろん、今も。
半年しかなかった十代の季節の中でも、それこそ穴が開くほどザンザスを見つめていた自覚はあった。彼と一緒にいるときは、とにかくずっと彼を見ていたことしか覚えていなかった。今もそう、目覚めてからの時間ずっと、彼が目の前にいるときはずっと、それこそザンザスに嫌がられるほどじっと、彼を見ている自覚はあった。それは彼の仕事でもあり、彼が自分に課した「役割」でもあったが、それを抜きにしてもとにかくずっと彼を見ていたかった。
だけれども、それは自分がザンザスを見るということ。
その逆の状態を、彼は想像もしていなかったのだ。

「……」
「…………」
黙り込んだまま相手の姿を見ている。ときどき視線が合う、しばらく顔を見ているが、スクアーロが先に耐え切れなくて視線をそらす。目をそらすのはどんな動物の世界でも負けているほうがする仕草、そういう意味なら確実にスクアーロは負けている。急所はお互いの目の前にさらされている、風呂場の湯船の中に二人で脚を広げて入っている、自分は左手を外さずに入ってきたので手袋をしているが、あとは何も身に付けていない。だがザンザスの手は今も変わらず凶器であることは間違いない、その手で体をつかまれたらもう負ける。
ザンザスの視線はやけに執拗で、スクアーロの体の輪郭をじっくりとなぞったあと、今度は上から舐めるようにして視線を降ろしてゆく。視線に熱が含まれているようで、スクアーロはまばたきするのさえも、意識しなければならなかった。
「……そ、の、…なぁ、……」
「どうした?」
「湯加減、…寒く、ないか?」
「別に?」
「そうかぁ…? あの、なぁ、……」
「なんだ?」
そう言って、ザンザスはふっと唇だけで笑った。その声と気配だけで、スクアーロの肌が粟立つ。興奮して血が上るというよりも、血が下がる感覚があった。ぞわりと背筋が震える。
「なんでこんなことするんだぁ…?」
「嫌なのか?」
「…なんか楽しいのか…? こんなことして、」
「つまんないことを俺がわざわざすると思うのか?」
「もういいだろ…匂いもとれたし、先に、」
「駄目だ」
そういってザンザスが自分の両脇に据えたスクアーロの足をひっぱった。バランスが崩れてひっくりかえりそうになるのを、閑一髪のところでこらえる。バスタブのふちに手をかけて体を支えていると、つかまれた足首にザンザスの手が添えられ、それが肩に担がれる。
「…ちょ、ここですんのか…?」
「嫌か?」
「酒、入ってるんだろ、あんた、…出たとたんにひっくりかえるぜぇ」
「あれくらいで酔うか」
「心臓に負担かかるから、やめよう、ぜぇ、」
「おまえが止めたいんだろ?」
「違ぇ…、あんた背負うの、大変、…」
ちゃぷちゃぷと湯の音、ザンザスはかかえあげたせいで空いた空間に手を入れ、膝の裏から太股のあたりを、何度も何度も撫で回している。そうして身を寄せてきくるので、ああ、キスされるんのかなぁ…とスクアーロは思ったのだ。
だが。
彼の主が為してきたのは確かに口付けではあったが、―――それは彼の唇ではなかった。
「なっ、…!」
がりっと音がするほど強く、膝の皮膚に噛み付かれる。歯型が残る――そこを、ザンザスの舌が這った。
「―――ッ、」
息を呑むしかない、こんな行為には。湯でぬるく温まった皮膚はやわらかくなりつつあり、その肌を切り裂くように噛み付いた歯の跡をなぞる舌はひどく熱く、それこそ燃えるように熱く―――そこから何か得体の知れない熱のようなもの、それとも冷たい水のようなもの、そんな相反した感覚が体の芯を浸して侵してゆくことを、スクアーロは感じていた。麻薬――そう、ザンザスは麻薬のようだ。そのもたらす感覚が忘れがたく、いくらでも欲しくなる危険な薬――命を脅かす最悪の薬だが、その鮮やかな光から目が離せない。
舌はゆっくりと歯形をなぞり、焦れるほどゆっくりとその範囲を拡げていった。
ああ、もうどうしたらいいんだろう。目が回る、息があがる、湯が胸を圧迫する、息が出来ない――まだ自分は酔っているんだな、…そうだな、たぶんそうなんだな。そうじゃなければ、目の前で揺れているこの黒い髪が、信じられないほど優しく肌の上を這いまわっているなんてありえない。舌が肌を探るのがやけにゆっくりしていて、時々思い出したように噛み付いて跡を残す。痛い、とい声が出る前に、それを宥めるように舌で歯型をなぞるのだ。うっ血した肌の歯の跡が浮かび上がるのは流石に湯の中だからか、ひどく早い。
ザンザスの歯型は妙に綺麗な形をしていて、乱れた歯がないので、噛みつかれるとそれこそ跡が、まるで薔薇の花のように真っ赤に開いて見える。それに気がついたのはザンザスが先で、整った筋肉で覆われた肩の丸みのそのてっぺんに歯を立てて、それが赤く開いたときに、ああ、まるで白い肌の上に咲いた薔薇の花のようだと思ったのだ――散らない花を肌に刻むのは、それはどこか独占欲を満たすような気がして。
誕生日には贈られるだけでなく贈るのもこの国の流儀、世話になった人に贈るせめてもの心尽くし。そんな甘い気分になったのは、気まぐれだ――そう、ただの気まぐれ。
この体に何かしてやりたいなんて本当にどうかしている。
受け入れることなどまだ出来そうにない。
だが今日は特別だから、……長い夜を嫌になるまで味わってもいいのはないかと、そんなことをザンザスは思ってしまったのだ。誕生を喜んだことなど一度もないし、本当にこの日が本当の日なのかどうかわからないが(おそらく違うだろう)、贈られるものを拒むのも、もういい加減疲れてきたところだ。特にこの男は本当に、なんでもかんでも自分によこすから――重い、と拒むことが出来ればいいと思うのに――ではその与えられたなにかを、自分は捨てることなどできないとわかっているのが腹立たしい。
なんだかんだと抵抗の言葉を重ねる銀色の男を黙らせるには口を塞ぐのが一番だと、ようやくザンザスは気がついた。
 

2008.12.10
なんだかまだ続きそうな気がしないでもない…。
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