目覚めよと呼ぶ声が聞こえ・3
うるさい、とひとこと。

そう言えば―――そう言わなくてもただ、ちらりと視線を向ければ、それでじゅうぶんだった。
八年留守にしていた息子を親類縁者に案内する九代目の姿を眺める。
その茶番を知っているのは、秘密は墓まで持っていくことを仕事にしている暗殺部隊と、ろくにイタリア語のわからない異国の子供、そして本当の全部を知らない門外顧問の手足となって動いていた女と男。
誰もその茶番に異を唱えないのは、その意味がわかっていない者たちと、そんなものの意味を評しない者たちばかりだったから。
その筆頭であるはずの茶色の髪の少年と、赤い瞳の青年を従えて、老いて小さくなった九代目は、意味のないダンスを踊り続けているようにしか見えはしない。
少なくともそれがどれほどの茶番なのかを知っている者たちには。

パーティの楽はいつのまにか室内楽の生演奏になった。
バイオリンが二台にチェロとコントラバスの編成で、愛らしい小品を続けて弾く。
ピアノの音が欲しいところだったが、グランドを入れるほど広くない。
さすがにダンスはないらしい。
さんざめく人々の話をさまたげない程度に静かに、しかし途切れずに音が紡がれるのを、聞くとはなしにスクアーロは聞いていた。
ヒバリが立ち去っていったのを確認してから、ルッスーリアが皿に食事を盛ってくる。

「あんまりおいしくないと思うけれど、少しはおなかに入れなさいな」
「爺さんのいるパーティの飯は味気なくっていけねぇなぁ」

ローストビーフに生野菜、鶏肉とレンズ豆のトマト煮込みを少し取り分けた皿を寄せてくる。今日は護衛ではないので、食事をすることが出来る。もっとも今、彼等が守るべき主は、彼を護る(あるいは殺す)ために背後に控えている男に監視されているので、彼等が護るべき仕事はない。もしかしたら毒が入っているかもしれない、そんな疑いはいくらでもかけられる。以前なら、九代目の催すパーティで、そこで供される食べ物に、ヴァリアーの面々が口をつけることなどありえなかった。そんなことを許したくはなかった。
今日はそれを勧められる。垣根は低くなった、という意味かもしれない。スクアーロは久しぶりに食べる自国の食事に、なんだか妙に感傷的な気分になった。あいかわらず、味がしない。ルッスーリアの作った煮込みのほうが何倍もおいしい、と無意識に考えた。

「ボス、なんか食ってるかなぁ」

本当にそれしか口にしない、そんな青年の横顔を、ルッスーリアは本当に困ったような顔をして見遣る。視線がサングラスに隠れているのが唯一の救い、こっちを見ないから気がつかない。いや、見なくても気配で知ってはいるだろう、だが優先順位が段違い。
今はただひとり、援軍も遠ざけられた満身創痍の高い背中が、けして折れぬよう、倒れぬよう、立っているのを見守るので精一杯。

「そうねぇ、……あの感じじゃ、何も口に入れていないかもしれないわ。こういうところではもとから何も口に入れない人だから」
「酒しか飲んでねぇのかなぁ。……なんだか少し、やせてねぇ?」
「……そうかしら。……そうかもしれないわ」

銀の副官の観察力はそれこそ、おそろしいほど冷静で的確で感情的。忠誠で行っているとは思えないほどの深さで主の姿を捕まえる。

「怒ってるかなぁ……」

それはWHO?それともWHAT? …そんなこと、聞く必要はないかしら。
彼等の主の怒りの振舞を、誰よりもよく知っているこの子がそっと目を細める。
懐かしんでいるように見えるのも、悲しいというより痛々しくて仕方ない。

「それは元気になったら直接お聞きなさいな」
「……聞けるのかなぁ?」

ぼそりと、そんなことを言うのを聞くのは、はじめてだったので。

「聞けるわよ。……大丈夫」

何が大丈夫なのか、自信などありはしない。ルッスーリアにはそんなことを断言する権利などない、そんなことを言うのは言いすぎというものだ。けれど、それでも、でも、言わずにおられない、そういってやらなければ、この子の。

「顔色悪いなぁ」
「それは怒ってるんじゃなくて?」
「…かもなぁ」

近づけないから確かではないが、しかし黒の王の背中は相変わらず、誰も近づけない、寄せ付けない。背後の護衛の顔色が悪いくらい、彼の怒気は体に辛い。少しでも感じられる人間ならば、腰が引けるのは当然なのだろう。
その怒気の一部にできれば、この子のことがかかわっていればいいと思った。
サングラスの奥の瞳を少し、細めて見ながら、ルッスーリアはそう思った。

「もう戻れるんでしょう?」
「どうだろうぉなぁ? それはわかんねぇ」

食べるときに音がしない、本当に静かに食事をするのがこの銀の青年の常だった。
おいしいものを食べているように思えない、仕事のように食事をするのを見るのも久しぶり。
それでもこの子に食事を食べさせるのは、ルッスーリアにとっては楽しみ、でもあった。
長い冬の時代に培った、それは信頼という愛情。
生きるために口に物を入れた、すべて主が戻ってくる日を待って、そのときに動くことを忘れないため。
育ち盛りの体に肉と骨を作るために、それはどうしても必要だった。必要だったから必要な分だけ食べた。頑丈な骨を作るために、丈夫な内臓を作るために、エネルギーはいくらでもあってよかった。でも全然、食べることがおいしいようには見えなかった。
だから話をした。楽しそうな話、困った話、いまでも金の王子が食事の間にいつも話をするのは、黙って食事をしているこの子の口が、いつ止まってしまうのかが怖かったから。黒の王は喧騒を好まないけれど、その会話は好きにさせてくれた。
王が戻ってきたから、、怖がらなくてもよくなった。ほんの少し前にようやく、ルッスーリアもそれに気気付いた。

「あなたがいないとつまんないわぁ」
「静かでいいとか思ってんだろぉ」
「静かすぎてつまんないのよ。ベルちゃんもマモちゃんも気持ち悪いくらい」
「なんも壊れないからいいだろぉがぁ」
「それはそうね」
「元気にしてるのかぁ?」

言葉の目的語は目の前の青年のこと、自分のことはいつも後回し。わかっているけど――わかっているけれど。

「ボスは全然部屋から出てこないのよぉ。一応本部での軟禁生活ってのが処分なんだけど、……そんなものなくても全然、部屋から出てこないんだもの。最初はまだ、怪我治ってないかって思ってたんだけど」
「仕事がねぇとすぐに引きこもるからなぁ…」
「食事もあまりしてないし。…お酒も全然、飲まないのよ」

その言葉に驚いて、灰銀の瞳が見開かれる。
そこが驚くところなの、まったくしょうがないわね。

「そりゃ、……よっぽど」

悲しいのよ。寂しいのよ。とっても、とっても寂しがりやなの、あの人は。貴方は一番、知ってるでしょう?
寒くて寒くてしかたないの。毛皮も毛布もシーツも、あの人を温めることが出来ないの。知ってるでしょう?
先を続けられないのが痛ましい。目元の青い影が痛々しい。目の前に、長い間待ち続けた主がいるのに、近づいてその声を聞くことも出来やしない、その距離が恨めしくて、ただ、悲しい。



立っているのが辛いのか、元から生気のない細いスクアーロの体は、電池が切れてしまったようだった。
ホールを出てエントランスへ。
室内の椅子は女や老人に占拠されていて、エントランスの奥の、張り出した窓の手すりは、外気に触れて寒いせいもあって人がいなかった。
松葉杖をつきながらそこまでたどり着き、そうしてその張り出した手すりに腰掛ける。楽になった。
はあ、と息を吐いて、背中の力を少し抜く。こんな程度で疲れているのか。やはり体力が落ちている。
仕事に戻るなら、まずは初めに体力を戻さないといけない。
腕の筋力も落ちている、肺活量もだ。
ウォーキングとランニング、素振りとウエイトトレーニング…まずは筋力を取り戻すのが先、それから食欲も落ちているし、……と、この先の予定を考えてながら、この先のこと、未来を当たり前のように考えている自分の考えに、スクアーロはらしくなく自嘲する。
明日死ぬとしても、死ぬならボスのために死にたい。自分のために一回死んだ、けれど死にきれなかった。
もう自分のために死ぬことは出来ない。そんな資格は自分にない。あるとしたらあとは、この命の使い道はひとつしかない。
自分のために使えなかったのなら、命の糧のために命を使うのは、間違いではないはずだ――もうそれしか、出来ることがないのだから。
そんな考えも、もうあの男には、邪魔なものだけなのかもしれないけれど。



少し眠っていたようだった。しばらく意識がなくなっていた。迂闊すぎる、そんなことをしている余裕があるとでも思っているのか――本当に、今だったらいつでも殺せる、簡単に。あの日本人の子どもたちでさえ、きっと息の根を止めることくらい、簡単にできるだろう。
意識が浮上して、耳が喧騒を捕まえる。どこか静かな音が高い天井に響いて、遠い夢のようだ。
そろそろ戻らなければならないだろう。迎え――が来るのだろうか。
そう思いながら立ち上がる。杖はもういらない。少し休んだらずいぶん体が動くようになった。武器になるかもしれねぇなぁ、と一瞬思ったけれども、今の自分には重すぎると思ったのでそこに置いて、ゆっくりと廊下を歩いて会場に戻ろうとした。

あと少しでドアに手が届く。伸ばした手が会場の、分厚いドアのてすりを掴もうとした。そのとき。





中からドアが開いた。





さあっと喧騒が漏れて、スクアーロの耳に入った。
せわしない人の声、誰かが引き止める言葉の名前が――耳に入った、ような気がした。


けれどそれより、目が奪われた。



ぶつかると思って伸ばした手を引っ込めたスクアーロの、その指先が一瞬で止まる。すべての時間も声も言葉も感情も止まる。
燃えるような真っ赤な瞳が、すがめるようにスクアーロを見下ろした。

名前を呼ぼうとして唇が凍る。
僅かばかり見上げた男の体中に、濃厚な夜の空気が、アクセサリーのようにまとわりつくのが、スクアーロには見えるようだった。
黒くて赤い鮮やかな夜の光が、豪華なスーツに身を包んだスタイルのよい男の背中に、ファーのようにまとわりついて、世界を黒く染めてゆくのが見えた。大きな羽のようにそれが広がった。
ふわりとそれが、ふたりをつつみこんだ。


「ボス」


スクアーロの声が呪縛を解いた。ザンザスは一歩踏み出す。会場を後にしようとする。
踏み出す足取りは確かで、争奪戦の衰えがあるようには感じられない。
それがスクアーロの前を横切る。それをただスクアーロは見る。目が縫い付けられている。その男の姿に。
スクアーロの脇を通り過ぎた赤い瞳は彼の目を見た。
視線が最後までそらされることはない。
スクアーロをただ、見つめる。見る。見つめる。
見つめる――その赤い瞳が見つめる。ただスクアーロの、灰青の瞳を見る。

カッカッとザンザスの足音が遠ざかる。
一瞬そこに足を縫いとめられていたスクアーロが、顔を上げて振り返る。
歩いてゆく後姿を見る。
玄関のエントランスの、豪華なドアへ歩いてゆく後姿を見送る――見送る? 
いいや、そんな選択肢が自分に許されるわけがない。
することはひとつしかない。
そうだ、ずっとそうだった。
八年前から、ずっと。


自動ドアが開く。車寄せに滑り込んだ車には見覚えがある。
ヴァリアーの専用車。
黒いスモークの張った後部座席に腰を折って滑り込む。
優雅な腰つきがスクアーロの視界をいっぱいにする。

ドアは閉まらない。
暗がりに滑り込んだザンザスの、赤い瞳が呼んでいる声が聞こえる。
言葉にならない声が、その肉厚の唇をくぐりぬけて耳に、耳の奥に届く。
脊髄に直接滑り込んで、体中に、響く。ただ響く。体中の細胞に響き渡って血が慄く。


「来い、スクアーロ」


答えは唇に登らない。一直線にその生き物はそこに飛び込む。餌を見つけた鮫のように、スクアーロは海に飛び込む。深い深い夜の闇に。
長い銀の髪が人の視界の中を翻る。何が起こったのか、わかった人の姿はほんのわずか。
まだ怪我が完全に治っているとは思えないほどの素速さで、それがホテルのロビーを横切る、駆け寄る、そして吸い込まれる――その腕の中に、吸い寄せられる。
銀の髪が翻る最後の一瞬を待たず、ドアは中から閉められる。車は走り出す、もう役目は終わったとばかりに。
闇の王と銀の供物を乗せて。








「まるで捕らわれの姫を助けにきたみたいじゃない?」

そんなことを言う黒髪の委員長は、今日初めて楽しそうな顔をした。
飲み干しているのはシャンパンではないが、食べるのにも飽きたのか、二人の立ち去る姿を二階の踊り場から眺めていた、そんな矢先のできごとを一部始終、眺めていたところ。
もちろん闇の王はその視線に、気付いていないことはない。
自分に集まる衆目を、知らぬふりをすることも慣れたもの――支配者になる教育とはつまり、そういうことなのだろうと思う。
ギャラリーがいることに気がつかないのは犬のほう。闇の王を追いかけてきたうるさい大人も、大人ばかりのパーティに飽きて外にいる自分も、見送りに出てきた顔見知りも、ちゃんとその一部始終を見ていたことに、たぶん犬は気がついていない。
犬が見ているのは主だけ、犬が命令を聞くのはただ一人の主人だけ。
よい犬は主を選ぶことを過たない。匂いを間違えない。声を間違えない。命令をただ、待っている。そして命ぜられたら、あとは走るだけだ。
まっすぐに、そこへ向かって走るだけだ。

「そうか? そういうものなのか?」
「そうだよ。どうみたってあれ、あの怒りんぼうが白馬の王子さまじゃない」
「は? 別に馬になど乗っておらんぞ?」
「乗ってるじゃない。ちゃんと」

そう、確かにかの王が乗り込んだ車のボンネットに、あの特徴のあるエンブレムが光っていた。馬は馬でも暴れ馬だが。

「これからお城に帰ってめでたし、めでたし、か。案外アナクロなんだね」
「それでよいのではないのか?」
「いいのかな」
「姫を王子が助けたのなら、そうでいいのだろう」

異国のお客の二人はそんな、あやふやな言い回しをしながら、踊り場からロビーを見下ろす。
もう眠いのか、晴の守護者はあくびを噛み殺した。

ようやくスクアーロがいないことに気がついたのか、スーツ姿の男たちが慌てて玄関の先へ走ってゆく。
窓の影の観葉植物の近くにたてかけられていた松葉杖にだれかがぶつかったらしい。
倒れた音がやけに大きく、エントランスに響いて消えた。










2009..7.23
前の回書いてから時間かかりすぎです。ようやく終わりました。
お待たせしすぎですね。


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