目覚めよと呼ぶ声が聞こえ・1
スクアーロの覚醒はいつも突然だ。
彼の肉体はある意味スポーツ選手のものに近い。
代謝がよく、無駄がなく、鍛え抜かれていて、軽く、やわらかい筋肉が全員を覆っている。
目が覚めるときも突然、深い海の底から急激に、水面に顔を出すように、意識が覚醒するのが常だった。たとえ前の日にどんなことがあったとしても、それはほとんどかわらない。よほど体調が悪ければ別だが、無駄に体力も筋力も耐久力もある彼が、目覚めが悪いほど痛めつけられるなどということは、実際問題としてほとんどなかった。
――今までは。


「ああ…」
喉が痛むような目覚めの朝は、泣きはらした後の目が赤くなっていることが多かった。
頬の一部が乾いて固くなっていて、頭を乗せていたカバーのその部分が湿っていることも、耳の後ろの不快感でたやすく知ることが出来た。
髪が濡れている。
汗をかいていたせいだ。
「ああ……」
息を吐く。ゆっくりと、大きく吐く――まだ、肋骨が痛んだ。回復には一番時間がかかる胸の骨、鎖骨の骨折はだいぶよくなった。
膝を曲げる。片足づつ、ゆっくりと動かす。足首、ふくらはぎ、膝、その裏、太股、股関節――片方づつ、ゆっくりと動かす。
大丈夫、大丈夫だ。どこも強い痛みはない。関節のかみ合わせもおかしくない、折れた骨はもうくっついた。リハビリでの筋肉痛も治まった、熱は出なかったはずだ――なら、やはりこの髪の生え際に残る汗は、あの。


頬を伝う涙が誰のために流されたものなのかなどということは、考えるまでもなかった。
十二月、一年最後の年、どこもかしこも聖人の誕生を祝う言葉でいっぱいな季節。スクアーロは一人、白い部屋の中で横たわっている。
窓に鉄格子、ドアに監視、続きの部屋に洗面所はあるが、その窓にも鉄格子が嵌っている。
今年は本当にめまぐるしかった。
ゆっくりと起き上がってカーテンを開ける。流石にまだ時間は早い、冷たい空気との温度差で、窓ガラスにはびっしりと結露がついているので外は見えない。もうそんな季節になった。早いものだ。

今年は本当にめまぐるしかった。

スクアーロはこの秋から後、一年の後半の4ヶ月のあまりの濃厚さに、それ以前の日々のことをほとんど思い出せなかった。
その前などもっと思い出せなかった。
ここ数年の記憶など、スクアーロには必要なかった。

記憶はあの日から始まる。

背中から振り上げられた酒瓶の衝撃、鼻につくアルコールの香り、水滴の冷たさ――揮発するアルコールが熱を奪った、あの日。
条件反射で振り向いて声を上げようとしながら、全身がそれを「発見」して――馬鹿みたいに「あ」の音のまま、口を閉じられなくて、舌を噛んだ、あの日のことだ。

あの日の。

真っ赤な炎みたいな瞳が八年ぶりに自分を見て、低いくぐもった声が八年ぶりに名前を呼んで――長い指と大きな手のひら、手首のところでぐっと細くなる関節、白い上等のシャツから伸びた手が八年ぶりに自分の頭を掴んだ、あの日。
すべての時間があの日を基点にして始まった。少なくともスクアーロにとっては。

あの日。

八年の記憶も時間も一瞬だった。過ぎれば何も思い出せない。この日を待っていた、本当に本当に待っていた。心の底から待っていた。待っていることも忘れるほどに待っていた。
髪がうなじを越え肩を過ぎ背中を覆い腰を越え、声が低くなって背が伸びて手が大きくなって、主の思い出したくない過去を遡って辿って求めて探して探して探した。
何度も何度も何度でも、問うて問うて問い正した。
答えは八年変わらなかった。もっとかかってもたぶん変わらなかっただろう。
その夢が、時間が、記憶が、そこにいた。人間の形となって、現実として、生きて、喋って、叫んで、怒っていた。
生きていた。ザンザスが、そこにいた。――そこに、いた。

それからもう四ヶ月。

一ヶ月と半分、八年を埋めるようにあるじの近くにいて、何もかもできる限りのことをした。
あるじの望む何もかも差し出して、磨いて、与えて、そしていくばくかの施しを受けた。
施し――いや、褒美だったろう、あれは。
今も思い出すだけで体が震えるのだ、褒美以外のなにものでもあるまい。

そうだ、だからこそ今も、あるじの声を思い出すただそれだけで、動きの鈍い手足に炎がともるというのに。
夢で泣くほど欲しい主の、その消息は知れないまま。生きてはいるとしか、言葉はない。

だが彼がこの世にいなくなれば、絶対に自分はわかるはずだという確信がある。
わからないわけがない、こんなに全身であるじを欲しがって、見たがって、感じたがって、聞きたがっているのに、わからないわけがない――そう信じている。そうでなければ、生きている意味がない。

あの日。

あるじが膝をつき、満身創痍の身を横たえ、天上を、空を、届かない空を眺めていた、あの日。
八年の長い間、閉じ込められていた願いが、完全に打ち砕かれた、あの日。
あの日の主の表情を思うと、今でも身が切り裂かれそうで、息が絶えそうで、苦しい。
ただ苦しい、苦しい、他に何も考えられないほど、苦しい、ただ苦しい
――これを人は悲しいというのか、これが悲しみだと人はいうのだろうか。
誰にもそれは救えない。主の声を、眼差しと、言葉と、腕が、それだけしか自分をそこから救えない。

手を伸ばした、最後にふれた肌の冷たさを覚えている。冷たくても生きている人の感触に、ああ、よかったと安堵したことも覚えている。
腕の中で目を閉じた頬から手を引き剥がされて、意識がなくなったことも覚えている。入院していた主が先に故国に戻ることになり、会いに来てくれた日を覚えている。
まだ満足に動けない自分の、ベッドサイドの椅子に座り、黙りこくって顔を見られていたことを覚えている。
怒りに燃えていた瞳は静かに漂うだけの眼差しを投げてきて、それを見つめながらまだ、この目を見られたことを喜ぶ自分がいたことを覚えている。名前を呼んだことを覚えている。名前を呼ばれたことを覚えている。手を握られた、他に何もなかった。何も言わず、ただ手を握られた。傷の残る手、手の甲に大きな凍傷の痕跡を見ながら、ここで泣いてはいけないと思ったことを覚えている。
覚えている。


何もかも全部、覚えている。



クリスマスまでには治せと言われた。ナターレのパーティ、そこに主が出るらしい、という話も聞いた。
話をさせられるかどうかはわからないが、顔を見ることは出来るとも聞いた。
生きていることは知っていた、元気でいるかどうかがただ、心配だ。
目先の餌だと知っているが、目的はないよりはあってほうがいいに決まっている。

だってまだ、覚えているのだ。

ザンザスの声も指も髪も目も、眼差しも溜息も爪先も愛撫も、汗も吐息も体液も体臭も。

覚えているのだ。

それはスクアーロの命、魂、精神、時間、空間、意識、欲望、性欲、真理、確信、忠誠、憐憫、愛情、憎悪、諦念、生命そのものだった。
過去も、今も、おそらく生きている限り、ずっと。




杖があれば動けるようになったクリスマス、年が明ければそれもいらなくなる。
パーティのための盛装に、杖はいささか似合わないように思われた。
それでも、ここまでの回復は治療を施した医師も驚くほどの速さだった。
そんなことは驚くべきことだろうか。スクアーロにとっては遅すぎるくらいの時間がかかっているというのに。
足のギプスは取れて包帯とサポーターだけ、少し細身のシルエットのボトムになんとかおさまって、しかしウエストの部分はかみ合わせができないから、ジッパーの位置を替えてもらった。腕の傷は塞がっているし、縫い合わせた後は綺麗に抜糸をしたので、ほとんどわからない。
どうせそのうち死ぬだろう身だ、いまさら綺麗にする必要などあるのか、ともスクアーロは思う。
完全に治す必要もない。動けるようになったらすぐに処分すればいいのに、と思っている。
パーティに連れて行くというのも、最後の恩情なんだろうと思っていた。哀れまれているのだろう。
それでも一向に構わなかった。顔を見ることが出来ればよかった。
本当はどこまでも護って、戦って、主の前にあるすべてのものをなぎ払って、彼の夢や野望や望むものを捧げてやりたかったが、それももう出来ないのだろうということはわかっていた。
逃げることも考えた。主の剣でないままに死ぬのはごめんだった。だが今ここで逃げたら、主に会う事も叶わなくなると思うと、スクアーロは自分のなけなしの自制心を奮い立たせて、必死に松部杖を動かした。

会いたかった。
ただ会いたかった。

会ってあの目を見て、あの黒髪を見て、あの背中を見て、あの腕を、あの胸板を、うっそりと眼を閉じる傷の残った頬を、ただ見たいと思っていた。言葉などなくてもいい、視線すらなくてもかまわない。
ただ自分が見たいのだ、彼を見て、彼の顔を見て、彼の姿を見て、彼が生きていることを確信したかった。生きていると知りたかった。そうすればよかったそれだけでよかった。
もう自分は役にたたない剣で、番犬にもならないのだ。
彼の持ち物として最後に一目だけ会いたかった、そうすればもう、いつ死んでもかまわなかった。
あるじの手で殺してくれれば一番よかったが、そこまであるじの手を煩わせるわけにもいかなかった。
そこまで望むのは贅沢というものだろう。
病室で顔を見られた、手を握られた、名前を呼ばれた、それでよかった。
それでもう、じゅうぶんだったのに、まだ何か望もうとする自分が浅ましかった。

会いたかった。

あるじは自分のことなどもう気にも留めていないだろう。
スクアーロはそこまで楽観的ではなかったし、自分の価値を理解していた。自分の価値を知っていた、自分がなにものなのかを知っていた。
腹心の部下で剣で狗で駒だった。あるじの最初の剣だった。
露払いの役目を仰せつかったのにそれが出来なかった死に損ないだった。今も足を引きずって歩く怪我人だった。
くっついた骨はまだしばらくは激しく動かすことができない。落ちてしまった体力はだいぶ戻っていたが、技を腕に取り戻すには、あとしばらく必要だった。
技が戻ったとしても、それを再び振るう日が来るなどということを思うことなど出来なかった。それはありえない夢というものだった。
死にそうになった九代目はあんなになっても自分の息子を愛しているだろうが、息子についてきた悪徳の名を冠した部下の存在など、快く思っていないことなどわかっていた。特に自分は八年前はともかく、今はもっとも邪魔にされていることだろう。許されるなどいうことはありえなかった。
どうなっても仕方ないと思っていた。
怪我を治されたのは五体満足で何かに使われるということだろう。ここまできちんと回復させるということは、まだ自分の腕と技術には使い道があるということなのだろうか。
どこで誰になんのために使われるのかはわからないが、主以外の誰かに使われるようなことになったら、その時は自分の命が終わるときだろうと思っている。
それともまた、昔のように『使われる』のだろうか? 
――いや、自分はもうとっくに成人した男になってしまった。筋ばった手足にそんな価値があるとは思えない。
昔、そう、あるじが八年眠っていたあいだ、少年だったスクアーロを欲しがって、彼を思いのままにした男たちは、彼の髪と肌と眼を珍しがっていたけれども、その時はまだ十四か十五で、子供の匂いが残っていて、大人のぶよぶよした腹に乗せて躍らせることができたから楽しかったのだ。二十二歳になった今はもう、長く延びた手足に子供の匂いはしないし、声は低くで潰れているし、髪だけはあの頃よりも長く綺麗に艶やかになったけれども、そんなものは若い瑞々しい肌と比べれば、ちっとも金品の交換に使えるようなものではない。少なくともスクアーロはそう思っていた。
実際はそんなことなどまったくなく、彼がそれなりに身なりを整え、そういうの店で一人、酒のグラスを傾けていれば、すぐに男が隣に座って、彼の引き締まった太股に手を伸ばし、その奥に指を突っ込んで、札を見せることになるのに決まっているのだけれども。
彼はボンゴレで『使われ』なくなってから、男よりも女に声をかけられることのほうが多くなったので、そういう意味での自分の価値をまったく理解していなかっただけなのだが。
今でも彼をほしがる男たちは内外に多く残っていた。彼の腕もほしかっただろうし、彼の姿も欲しがっていた。ただ彼はボンゴレの暗部のかなりの秘密を知る人間だったから、たとえ用済みでもおいそれと捨てることは出来なかった。おかしな部分で彼の空白の八年間が、彼の価値を彼自身まったく思わない部分で高くしていたのだった。
しかしそんなことは本当に、今の彼にはどうでもよかった。―――本当に、どうでもよかったのだ。

イタリアに戻ってきて初めて、スクアーロは同僚に会った。
パーティへの同伴をよこされたので待っていたら、それが彼等だったのだ。
ルッスーリアは曲がっていたスクアーロのネクタイを治してくれたし、部屋からスクアーロの好きな香りを持ってきてくれて、スクアーロのうなじに吹きかけてくれた。レヴィは無様だと言い捨てたが、先に立ってドアを全部開けてくれた。王子とマーモンは車で待っていた。
運転席にレヴィが座り、助手席にルッスーリアが座って、車は走り出した。スクアーロは外に眼をやったが、すぐに王子に話しかけられた。

「まだ杖が必要なのー?」
「なくても平気なんだがなぁ…年明けまでは使えってさぁ」
「そんなもん、先輩に持たせるなんて医者も迂闊じゃね?」
「監視がついてたからなぁ」
「使った?」
「使わねぇよ」
「ふーん」

王子と赤ん坊はつまらなさそうに呟いた。この中では一番重症に思えたルッスーリアも見ただけではわからない程度まで回復していたようだった。スクアーロが一番重症だったのだ。さすがに体に斜めに入った牙の跡を見たときは、よく生きていたとスクアーロ自身も思ったものだったのだから、他のメンバーもそう思ったに違いない。

「そんなに動けないのかい、スクアーロ」
「…そんなわけねぇだろ」
「カモフラージュのつもり?」
「安心しやがるからなぁ」

本当は、杖などなくても歩けるのだろうと言外の匂わせる言い回しに曖昧に答えると、王子と赤ん坊は顔の前で手を振った。
「この車には何もないから大丈夫だよ。ボクが確認したから」
赤ん坊がそう言った。彼の本当の能力は、どんなものでも制限できる類のものではないのだ。
「そうかぁ、…おまえら誰か、ボスには会ったのか?」
最初の一言がそれなのを、王子と赤ん坊はわかっていたような顔をして溜息をついた。前の二つの席からも同じような溜息になる前の吐く息が聞こえる。
「……なんだよ?」
「ううん、王子あんまり予想通りすぎてかえってムカつくー」
「賭けにもならなかったね、まったく」

スクアーロが聞きたいことなど本当に一つしかない。それは昔からずっと同じだった。
八年後のこの数ヶ月、やっぱりその間も同じだった。彼が言いたいことは一つだけ、彼の心を占めているのは一人だけ。わかってることを何度も確認させられるのは、わかっていたがかなりうんざりすることだったのだな、と四人は改めて思い出した。たぶん、みな少しだけ気が弱くなっているのかもしれなかった。普段なら笑い飛ばせるスクアーロの言葉が重いと感じるほどには、疲れていたのかもしれなかった。


2009.1.10
クリスマスの話のつもりで書き始めたのに年明けにアップって…(笑)。さくっと終わる予定なんですがどうなることやら。

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