ありふれた愛に関する記録・リプレイ・3

ここで長く勤める人間はあまりいない。勿論ここがマフィアのなんらかの組織であることは、私たちは皆わきまえているけれど、しかしそれ以上のことは知らされていないし、知る必要はない。上の地位の人間の情報はあればあるほど危険なのはどこの会社でも同じ。
古い大きな城を改築したこの建物の中は、使っていない部屋がいくつかある。そこもきちんと掃除することになっている。中に入れる人間は限られていて、私は一番古くからここにいるので、自然とそれを任されることになっていた。と、いうよりは、人手が足りないので、若い入りたての従業員にはまかせる余裕がないのだ。
私はもう十年もここにいる。初めてこの城に来たのは確か離婚して子供を田舎に預けたばかり。傷ついていたのと、世間から離れていたかったので、住み込みで仕事が出来るこの環境はありがたかったのだ。
年に数回しか会えない子供は、預けた田舎の姉の子供になった。身を切られるように辛かったが、沈黙の掟を守るにはそれが一番有効だった。当時の上司はそれと引き換えに、高額な賃金を保証してくれたし、契約料を弾んでくれたのだ。私はそれでいいと思っていた。
最初の数年はそれほど大変ではなかった。人は多かったし、仕事はたくさんあった。
いきなりの嵐が来たのは六年前だ。



秋の嵐が来たように、何かがあった。私たちには何があったのかなどということはわからなかった。上のほうでなにか大きな事件があり――いろいろなことを深く知っていた上司だけを残して、他の仕事仲間はいなくなった。私が残されたのは、家族がいなかったからだろう、ということに後で気がついた。どこかに配置転換された仲間とはその後も時折会うことがあったが、しかし何があったのかは結局のところはわからない。今も。それでもそんなことは問題ではないのだと、私は思っている。


この城の主の部屋に入ることが出来るようになったのは勤め始めて三年目で、主の汚した服や寝具を片付けたり、部屋の掃除を担当することになった。この城には若くて柄の悪い男がたくさんいた。面倒な男女関係になることを防ぐ意味もあって、女性の従業員は若い女、綺麗な女を慎重に避けて選ばれた。口が固く、好奇心を持たず、仕事に熱心な女。過去に何ごとかがあって、男の腕より報酬が必要な女。私は子供にお金を送る必要があった。姉夫婦は子供がいなかったので子供を大切にしてくれたが、生活が楽ではなかったからだ。それに、それくらいしか私は子供にしてあげることがなかった。家族からの手紙はすべて検閲されて、月に一度しか届かない。
当時城に君臨していたあるじはまだ年若い少年で、しかしすでに王者の風格を持っていた。前のあるじは四十近い、静かな大人の男だったと思うと、すべてが正反対だった。背が高く、眼差しが鋭く、使用人にはそれ以上の何の関心も持たず、仕事には厳しく、よく通るいい声で喋り、余分なことを喋らず、誘惑に負けず、嗜好がはっきりしていた。
しかしそれもほんの僅か、すぐに嵐がやってきて主はいなくなった。人はいなくなった。
城は火が消えたように静かになり、私はどこかへ行くのではないかと上司は言っていた。だがそうはならなかった。


「失礼します」
挨拶はするが、上の人間はそんなことを気にしない。私たちは空気と同じなのだ、それでこそ使用人の意味がある。私たちは空気のように動くのだ、それが使用人のスキルである。目に止まることは益ではない。目をつけられることはいい意味ではない。
部屋の主は朝早く出かけていった。最近はほとんど城にいない。かつてはひどく若い少年だった。主が連れてきた子供だ。子供だった。
今はもう子供ではない。少年から大人になった。そして今はこの城の王だ。仮の、なのかもしれないが。
初めて来た頃は本当に、伸びやかな手足ばかりがひょろひょろしていて、声が大きいただの子供だった。だがその時にすでに幹部待遇で、主の部屋に入れる権利を持っていた。城の奥の部屋を与えられていたからだ。同じフロアだったので一緒に私が担当していた。しかしそのころからほとんど部屋にいなかったので、掃除は簡単だった。部屋にいないのでゴミもあまり出さず、物がないので掃除は楽だった。
今もあまり変わらない。ゴミは服ばかり、いつもボロボロだ。上着はいつも汚れて血塗れ。血にまみれた服は敷地の中で燃やさなくてはならない。表面処置がしてあるので、裁断するのに手間がかかるのが難だった。
主は髪が長いので、それが床にこぼれている事が多い。長い銀の髪。初めて見た時はもっとずっと短かった。今は背中を超えて腰に届く。どうやらあれは意図をもって伸ばしているらしい。ファッションで伸ばしていると思うには、この部屋の主の服は簡素過ぎた。
落ちた髪はホコリが絡みやすい。それが長ければなおのこと。仕事から帰ってきて眠るだけの部屋をなるべく快適に整えることが私の仕事。それだけがたぶん、主の安らげる時間なのだと私は知っている。


最近はそういうことがなくなったが、三年ほど前までは、午前の九時か十時ごろに行う掃除の時間でも、ベッドで寝ていることが多かった。一応声をかけて入る(鍵の有無も確認するが、ほとんどこの部屋にはかかっていない)のだが、主は返事をしないのだ。声が出ないのだろう。私はその頃になると、多少は人の気配を察することは出来るようになった。しかし幹部クラスの人間は、本当にそこにいるのだと目で見ない限りはわからないほどまでに気配を隠すことが出来るので、寝台のシーツが盛り上がっていなければ、使用人にはわからない。もっともわかったからといって、それを気にしていたら仕事にならない。私たちは空気なのだ。
シーツの中で背中をまるめて眠っている主は肌も髪も睫毛も爪も真っ白で、呼吸すらもあるのかないのかわからないほど静かだった。生きている人間が起こす、最低限の音すらしない。だからといって近づくと、すぐに目を開けてしまうだろうが。
私は決められた手順通りに窓を開け、ダスターでホコリを取り、家具を乾いた布で磨く。ダストボックスを開け、中身を分類する。その日も服が一式入っていた。その頃は月に二、三回、ボタンが取れて引き裂かれたシャツが入っていることがあった。ランドリーに入っていた生臭い匂いの汚れ物と付き合わせれば、それがどんな意味なのかはすぐにわかる――女なら。
血で汚れて異臭を放つシャツや上着や手袋は見慣れていたが、こんなものをここで見ることはあまりなかった。…そういえば昔、まだあの王者の威厳を身に纏っていた若い主人が君臨していた短い間には、何回かそういうこともあったように記憶している。その時もたぶんこの少年がいたはずだ――私が片付けたのだ。たぶん。最初に片付けた時の衝撃だけは覚えているが、それももう慣れたもの。そういうこともあるだろうな、と妙に冷静に納得していたから。
「他になにかございませんか」
「…別に、……ああ、そこのも捨てといて」
シーツの中からけだるそうに白い手が伸びる。指差された先には汚れたガーゼと包帯とタオル。今日は怪我をしているのか。
私は黙ってそれをダストボックスに入れる。燃えるものはなるべく敷地内で処分して、外にゴミを出さないのがルール。ゴミからでも情報はわかるから、生ゴミはすべて敷地の中で堆肥にしてから農家に売るし、燃やせるゴミは燃やして量と痕跡を消してから捨てるのだ。
ここのところこの部屋の主は頻繁にガーゼを捨てている。この部屋の救急箱はあっただろうか、補給しておかなくてなるまい。包帯とテープも。薬は個人で揃えているので関係ないが、怪我が多いので簡単な応急手当は自分で出来るように、部屋にはどこにも救急箱がある。
「わかりました」
主はそれだけ言うとまた目を閉じる。背中を壁につけて、目を閉じているが起きているのだろう。使用人の前で熟睡しているような人間はこの城にはいない。今は本当に精鋭しか残っていないらしい。部屋の掃除は私がすべて行ってるからだ。一人で間に合うほどしか、使っている部屋がない。
床を掃いて、動かしたものを戻す。ベッドの下も綺麗に掃き清め、そうして部屋を出た。体力を回復するために一刻でも寝ていたいのだろう、こめかみが赤く腫れて唇が切れていた少年は、そっと目をあけて私が部屋を出ていくのを確認していた。
伸ばした手首にあった、あれはなんの痣だろうか。



子供の部屋に入るときはいつも緊張する。中にいるとナイフを投げてくることがあるからだ。一度本当に髪を切られて、手が震えて仕事にならなかったことがある。それ以来、私は必ず声をかけて、ノックをし、返事がくるまで待ってから入ることにしている。他の部屋より長く待つ。
「いいよー」
まだ声変わりがしていない子供の声。それでもこの子供は幹部なのだ。血まみれの服やタオルは一番多い。お菓子のパッケージも。
子供は部屋の中で寝転がって本を読んでいた。難しいハードカバーの本、タイトルはたぶん外国の言葉。最低でもいくつかの言語を扱うことが出来るのが、幹部クラスの最低条件だと聞いたことがある。通訳を介して恫喝は出来ない。
「そこの全部捨てていいよー」
そう言って子供はテーブルの上に巻き散らかしたお菓子を指差す。食べかけのポテトチップスとバナナチップス、半分舐めたバタースコッチ。クッキーは半分残っているし、サイダーは飲みかけで気が抜けている。転がっている炭酸水はまだ半分残っているが、この子供は飲みかけを好まない。たとえ自分のものであっても。
「どこの部屋行ってきたの?」
声をかけながらダストボックスを覗き込む。子供は使用人の了解などとらない。必要ないからだ。中に手を突っ込んで、ゴミをひっぱりだしてはなにやら喋っている。私は机の上のゴミを片付ける。テーブルを拭く。床に落としたゴミはまとめて掃き出す。ベッドから動いたので、シーツを引き剥がして取りかえる。子供の好みはこの季節はボアのやわらかいネルシーツ。肌あたりがよく、汗がたまらないもの。
「ししし、また怪我してんの!」
そう言いながらガーゼをつまむ。そしてその下の裂かれたシャツを見た、ような気がした。
ベッドメイキングをしながら、背後の気配が変わったことに気がついた。顔をあげてはいけない、そう思った。視線は下に。床の上が汚れているのが見えた。しゃがんで床の汚れをダスターで拭き取った。スプレーで洗剤を拭きつけ、強く擦る。
「……ちっ、……」
子供は何かを吐き捨てるように呟く。それは多分、呪詛のようなもの。あの嵐が起こってから、時折幹部の人間が何かに向かって呟く言葉。
いなくなった主を恋い慕う気持ち、それとも恨みだろうか?
カーゴの脇に突っ立っている子供にそれを動かしていいか許可を取る。かすかに子供は頷く。私はモップをたてかけて部屋を出る。子供が何かを壁にたたきつけた音がした。今掃除したばかりなのに、困ったわね。いない時を見計らって片付けましょう。


少年は青年になった。子供は少年になった。
無愛想な少年は寡黙だが部下思いの青年になり、顔つきは怖いが彼だけは使用人に声をかけてくる。仕事の様子に気を配る。時々私たちの控え室まで顔を出す。最初は驚いたが、彼は自分の部下には皆そうするらしい。顔を彩るピアスの数が増えてくるたびに、青年は部下への気遣いがこまやかになるような気がする。それが私たちの勤労意欲を向上させているのか、といえば、あまり関係がないのが惜しいところだったが。
少年と子供の面倒を見ているもう一人の幹部の男は、私たちをほとんど見ない。見ないことで気を使っているのだろう。
珍しいお菓子が差し入れされることが年に数回あり、そういうときはピアスの青年がそれを持ってくるのだが、もう一人の幹部がそれを選んだのだ、と律儀に言ってから渡してくるのだ。栗のたっぷり入ったモンブラン、カシスが練りこまれたパイケーキ。スポンジにしみこんだブランデーととろけるチョコのハーモニー、口の中でとろけるドラジェ。今は片手で数えるほどしか残っていない使用人には、そんな心遣いが染み入るように嬉しい。かつて二十人近くいた使用人は、庭と車の手配とメンテナンスをする男と、室内の掃除を担当する私ともう一人、厨房に二人と朝と晩だけ来る近所の農家の女が二人、経理と総務の担当が一人だけだ。世話する人間は格段に減ったので、それでもなんとか回っているのだが。農家の女は農繁期になると来なくなるので、そうなったら私も厨房に入る。だがそれほど人手が必要なことはあまりなかった。とにかく、あの事件、六年前のあの事件以降、ここには人がいないのだ。賃金も下がったが、ここに残っているのはその事件より前からいる人間ばかり、他の仕事を探せないか、この城(と中にいる人間)が好きな物好きばかりだった。
経理の人間は詳細について全く口にしないが、賃金の心配はないという。この城に暮らしている彼らが、何をしてここにお金を持ってきているのか、その理由をわたしたちはおぼろげに知っている。六年前の事件もそれに関係があるということも知っている。詳細を語ることはしない、それが使用人の礼儀。お茶の時間に集まって話をしていても、そんな話はなるべく、しない。どうしても口に出てしまうことはあるけれど。
それぞれがもっている情報を集めると、何が行われているのかなんてことは、素人だってわかるものだ。
血塗れの服や引き裂かれたシャツが何に使われたのか、汚れたガーゼは何故そこにあるのか。
医務室にある設備はかなり本格的で、常駐の医師はいないが今は隊員の中に有資格者がいるらしく、その人がそこで仕事をしているようだ。もっともこの中の人たちは、普通の人よりはよっぽど知識があるらしく、宝の持ち腐れにはなっていないらしい、と経理の女が言っていた。
(薬を補給するのも彼女の仕事だ)
時々私はそこで子供の話をする。子供がいる使用人は結構いる。皆一緒に暮らしているわけではないが。農家の女の家とは野菜の取引をしているので、彼女たちは来るときは野菜を持ってくる。城にいる人数は日によってかなり変わるから、それによって内容を変えてみたりもする。厨房に入っている二人の料理人は腕がよく、余った野菜や果物はすべて保存食品にして使い切る。かつては贅沢に暮らしていたこの城も、今はそんなことが出来る余裕はない。男ばかりがいるので、食事の量は多いのだ。

かつての主を知る人も少なくなった。最初に私を採用してくれた上司は二年前に辞めてしまった。そろそろ私は他に移されるではないのか、そんな話も時々聞く。それがあの世でないことを祈る。マフィアの組織に長く勤めるだけではそんなことにはまずならないが、ここはおそらく罪人の檻なのではないかと、最近私は気が付いてしまった。青年も少年も皆罪人なのだ。



私はそこで十年を暮らした。もう少し長くそこにいたかったが、田舎で子供を預けていた姉が病気になり、私は仕事をやめて姉の仕事を手伝うことになった。娘と暮らすのも十年ぶりで、それを思うと少し不安だった。もう娘もいい年頃になる。
話をして、引継ぎを済ませるのにはかなり時間がかかった。私の後には私くらいの静かな女がついた。飲み込みがよく、察しのよい女で、私はあれこれを教え、仕事を辞めた。ピアスの青年が花を、幹部の男が小さいブローチを送別に送ってくれた。ささやかながら退職金も出た。そんな余裕はないことを知っていたが、好意は受けることにした。






かつての少年をもう一度見ることになったのは、それから五年ほどたったあとのことだった。
私は娘とその子供と一緒にホテルにいた。短いバカンスを終え、田舎に帰るところ。ホテルは中央で修行した料理人が起こした小さいトラットリアで、食事が非常においしく、予約を取るのが大変だった。娘が奮発してくれたのだ。
私は孫の手を引いてホテルの外を散歩していた。少し離れたところにも同じようなトラットリアがあり、私たちがいたところよりも少し大きく、高台にあった。壁の曲線が美しく、豪華でありながら上品だった。宿代は私たちのホテルの倍はする。
孫とその周りを歩いていると、何人ものジョガーに会った。上流階級であればあるほど、外見の美しさを気にする。体力がなければ仕事は出来ない、だから高級ホテルであればあるほど、早朝に走る人は多い。大抵が二人以上。護衛なしに身分の高い人間は出歩かない。
私はそれを眺めながら、孫の質問に答えていた。孫はまだ歩き始めたばかり、だっこをいやがるが長くは歩けない。歩幅が違うから、大人と同じ距離を歩いても三倍は歩いている。
長い直線を歩いてると、前から二人の男性が走ってきた。背の高い黒髪の男と、同じくらいの身長の銀髪の男。二人とも大層姿勢がいい。非常にゆっくりと、…歩いているのとあまり変わらない速度で走ってくる。走りながら喋っている。
二人とも、非常に手足が長かった。ひどく印象的なのは、その色合いが真逆だから、だろうか。少し浅黒い肌の黒髪の男と、抜けるような白い肌の白銀の髪の男。銀髪の男は長い髪をなびかせながら、黒髪の男の僅かばかり後をついてきていた。黒髪の男には額に傷があった。そこだけ皮膚の色が違っている。服からみえる手の甲にも、引きつれたような傷があったのが見えた。
どこかで見たような気がして、私は不躾にも二人の顔をじっと見てしまった。ちらりと銀の髪の男が視線をこちらによこす。黒の髪の男は私たちを見ないで前へ視線を固定したまま。近づいたからといって、話の声をひそめるなどということもしない。黒の髪のほうが身分が高いのだろう。――既に、どこかで、それを、見た。
その色の組み合わせ、その視線、ガーネットの濃赤色の瞳と冴え冴えとしたクリスタルの銀青の瞳。

「朝は何が出る」
「コンチネンタルじゃねぇのか。まだ時間はあるから気にすんな」
「気にするわけねぇよ。ここのホテルの食事に文句はねぇ」
「そうか」
「ドルチェが欲しいかぁ?」
「それは予約してある」
「へっ?」
「食いたいって言ってただろうが、おめぇ」
「あー、………そう、だったかぁ?」

声。

言葉。

記憶と繋がる時の、あの何かが解けるかんじ、記憶の膨大な本棚の、その中にあった本のたった一ページ、たった一枚、アーカイブの中の一つだけの音節フレーズ――それを一瞬で見付け出し、開いたときの感動――そんなものを久しぶりに思い出した。

血が沸いた。

私ははっとして今通りすぎた二人の男を振り返る。銀の髪が揺れて遅れてその背中についてくる。歩き方。その姿勢。足元は見慣れていた、戻ってきた姿を見たら目を伏せるのが使用人の決まり。顔を見るのは頭を下げてから。少年はいつも大股で歩いた。どんなときでも。本当は足音を消すことも可能なのに、私たちに知らせるために音を立てて歩くのが彼らの流儀だった。私たちがそれに気づいて、きちんと挨拶が出来るように、目を伏せることが出来るように、血の匂いにまみれた姿を見て、顔をしかめないように。
そして黒髪の男の顔に、私はわずかな期間だけ仕えた主の面影を見た気がした。もうだいぶ昔なので、記憶はおぼろげだったが――あの声と話し方に覚えがあった。覚えていた。まだ。だいぶ口調が変わっていたが――、あの印象的な声は忘れ難い。
生きていた。生きていたのだ。
二人とも、今まで。

何よりそれが、嬉しかった。

二人の男はペースを緩めず、話しながらどんどん先へ行った。直線の最期にホテルの入り口があり、その手前で二人は走るのをやめ、軽くストレッチをして、今度は優雅に歩きながら、門をくぐって中に入って見えなくなった。

私はそれを最期まで見つめていた。

2008.11.9



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