ありふれた愛に関する記録・リプレイ・2

少年が玄関に投げ込まれた音に彼は気がついた。
かつて入り口には出入りを管理する執事が控え、主の足音や車の音でドアを開ける役目を負っていたが、今はそれもなくなって久しい。
他の構成員にはこんな役は任せられない。今回は酷い。噂は知っていた、人に言えない趣味があることを。カソリックの大罪をいくつも犯すのは彼とて同じ、しかし、――だがしかし。
足音を立てたほうが少年には有効だ、そうしなければ少年は起き上がって、這ってでも外聞を整えようとするに違いない。
「おかえりなさい」
声をかけるが答えはない。自分の声を聞いて、落ちたのか。肩の下に手を入れて引き上げる体は、意識を失っているにしては軽い。
ああ、まだ意識があるんだわ、この子ったら。頑丈なのは昔っからねぇ。元がいいのか、育ちがいいのか。彼を育てた人間は、彼に感情はよこさなかったけれど、頑丈な身体をくれたわ。それは感謝すべきことだわね、…たぶん今は。
痛みに声をあげる力もない少年の、ぐったりした体を軽々と抱きかかえて、彼は回廊を抜けて二階へ向かった。



ベッドに下ろすと汚れるからソファにおろし、手早く服を脱がすのは慣れたもの。関節に異常はないし筋も違えていない、さすがにそこはわきまえている、らしい。身体能力を損なう怪我はさせられない――ということになってはいるけれども、目に見えなければいいわけがない。
少年はもう抵抗しない。その気力もないのだろう、手足の色が鮮やか過ぎて目に痛い。
抱き上げようとすると僅かに目を開いて抵抗するが、それを指先でもう一度、おろす。
「お姫さまみたいにじっとしてなさい、余分な力を入れると疲れるわよ。明日、動けなくなってもいいの?」
呪文のような言葉に少年は黙り込む。納得はしていないが理解はしているようだ。自分の中の価値観の天秤はいつも正確。
バスタブに張った湯はいっぱいになったかしら。音が変わったわ、そろそろね。
彼は少年を同じように抱き上げて浴室へ向かった。今度は足音を消して。音がするのは仕方ないけれど、寝ている人を起こすのは益じゃないわ。寝不足はお肌の大敵、たとえ紫外線を浴びない生活をしていてもね。

外側だけ水で洗ったのだとすぐにわかる程度には、少年の体はひどかった。
口をゆすぐとまだ血が出た。
「歯は大丈夫ね」
髪を引き上げてこめかみをたどる。煙草は押し付けられていないわね。あの跡は酷く残るのよ。
せっかく綺麗な顔してるんだから、傷つけるのはもったいないでしょう。
そうね、価値を下げるのは益ではないわ。……私たちにとってもね。
「頭痛くない? 気持ち悪くない?」
湯をかけて汚れを落とす、薄く張った膜のような匂い。
「何塗ったのよ…肌が荒れるじゃないの」
腹にも背にも足にも腕にも、色がつきすぎてて目が痛いわ。おかしいわね、眩しいのかしら、…視界が揺れるわ。
「指は動くわね、…ちゃんとあとで薬出すわ」
背中が特に痛々しいわ。綺麗に塞がるかしら、…刃物で薄く切った後って、あんがい跡が残るのよね。
「でも若いからすぐに治るかしらねぇ…」
拡げるために指先に力を入れると折れそうだわ。こんなに腰が細くって大丈夫なのかしら。息を吐くのよ、そう、吐いて――吐けば吸えるわ。力も抜ける。大丈夫、大丈夫よ、……力入れないで。吐いて。痛い? 傷ついたかしら。他よりは早く治るけれど、傷がつくと大変なのに。
検査はしてるそうよ。でも念のため、またしましょうね、…抗生物質も出すわ。大丈夫、よく眠れるわ。
すごいわね、まったく、なんだと思ってるのかしら。いやらしいわね、男って! あらあら、そこ笑うところじゃないでしょう。
…残りはまた後でやりましょう。体があたたまるとまた下りてくるわ。全部出すのは無理だと思うけれど、残さないほうがいいわ。
あらごめんなさい、深すぎたかしら。いいのよ、当然のことだもの。しょうがないわ。慰めているんじゃないわよ、知ってるだけ。
いやらしい男ってものをね! だから暴れないでね。気絶させるわよ? そう、いい子ね。
よく温まるのよ。染みるだろうけど、早く治るわ。髪洗うからこっちに頭よこして頂戴。
本当に綺麗ねぇ、貴方の髪の毛。さらっさらしてて。少し前だけ揃えましょう。視界が邪魔でしょう。
後ろは揃えるだけよ、知ってるわ。
切らないわよ。
知ってるわ。
寝ててもいいわよ、運んであげるから。お姫様みたいにしてていいわよ。
あら本当に寝ちゃったの? 水飲むわよ。
明日は香りをつけてもいい日でしょう、このとっておきのトリートメントを使ってあげるわね……。


本当に落ちてしまった少年の体は軽い。まだとても軽い。その身のうちに刃を、炎を、氷のような意思を秘めていてもまだ軽い。
伸びやかな四肢をタオルに包んでベッドに運ぶ。気絶したように少年は寝ている。体を拭いたら起こして薬を飲ませなければ。
こんな夜はいつも熱が出る。
それを知ったのは三ヶ月の前のいつもの日で、戻ってきたら入り口で倒れていたのを見つけたのは彼だ。
時間があれば少年がただ一人、すべてを捧げると誓った主の眠る場所へ通っていることは知っている。
その仕事の後は特に、痛む体を引きずってでも会いに行く。死にそうな子供の顔で、帰ってくると目が真っ赤なことには誰も何も言わない。
翌朝になれば元気になっているから。
けれどそれは負担でないということではない。治りが早いが傷がなくなったわけではない。
熱は悪夢と不眠を呼ぶ。治りを早くするにはどちらも不適切なものばかりだ。
僅かな時間でも深く眠るのは、自分が信用されているからだ。それは嬉しいのと同時に悲しくもある。感傷を知っている自分は確かに、少し女かもしれないわね、と彼は思う。
髪は乾いた。
パジャマに着替えさせると体を起こす。少年は目を開いて、差し出された水を飲んだ。
手のひらに乗せた抗生物質とごく軽い睡眠薬。薬に強い彼にはこんなもの、気休めにしかならないだろうけれど。
飲み干してすぐに横にすると、少年はまたすぐに眠りに落ちる。枕元にタオルを置く。
風呂場に取って返し、綺麗に後始末をする。来ていた服はもうぼろぼろなので捨てるしかない。ボタンが飛びすぎだ。
このシャツ一枚と引き換えにどれだけの金品がここへ流れ込むのかと思うと彼は少し悲しくなる。



翌朝、少年は少し起きるのが遅い。疲れているのだ。起きて来ないのには理由があるが、そんなことを詮索する人間はここにはいない。
部下の面倒を見てきた青年はいい食べっぷりを見せてくれるし、王子は文句は言うがマナーは完璧。今日は珍しく手伝ってくれる人もいたので、他の人の分も作ったわ。でも今ここにいるのはそんなに多くないけれど。この建物を維持するのに最低限な(もしくはそれ以下!)の人間しかいないのよ。それだけの人間が、あんな少年の意思に従っているというのだから、おかしなものでしょう?
彼はそう思いながら朝食の支度を続ける。階下の食堂は別の人間が仕切っている。彼の仕事は幹部の給仕。別にもっと下の人間に任せてもいいのだけれど、こういうことをきちんとすることも、結束を高めるには役に立つ。おいしい食事、適切な健康管理、顔をつき合わせて相手の様子を知ること。夜の仕事だからこそ、余計にそれは大切。主がいない、今なら特に。
「おーす」
少年が起きてきた。珍しい。薬が効いたのか、妙にすっきりした顔。身支度を整えて席につく。体が少し不安定。
食事を食べ始めるとすぐに、人形みたいな顔が生き生きと動き始める。王子が声をかける。ブロッコリーを食べるの食べないので揉める。
ニンジンもブロッコリーも食べなさい! 嫌そうに王子が口に入れるのを少年はじっと見ている。飲み込むところまで見届けて、よくやったと頭を撫でる。王子はふてくされているが嫌がっていない。まったく、いいマンマね。
朝の光が少年の横顔をひどくはかなく見せている。細い輪郭が少しはっきりしてきた。毎日少しづつ育つ若木の瑞々しさを、主が味わえないことの不憫さを思うと彼は大袈裟に嘆きたくなってしまう。少年が一番おいしいであろう年頃を、味わえないなんてなんて悲劇! 私じゃダメよ、だってもっと熟れているほうが好きだもの。でもね、そう思えるのは自分がもう、少年ではないからなのかもね、と彼は思うこともある。

彼は忘れることが出来た。少しだけ少年より大人で、少しだけ少年より現世の欲望に忠実だったから。
自分のための欲望を、一つに絞ることなんてしなかったから。
だからこそ彼はそこにいられた、そこで生きていられた、そこで過ごしていられたのだ。



愛されるということを彼は考える。愛するということを彼は考える。
自分の体が誰かの中に入り込むこと、そうして動くこと――性行為と同じこと、してるみたいだわ、と考える。
彼は男の体から自分の指を抜いた。体液が飛び散った。コートが汚れちゃうわ。
ごとりと力を無くした体を引き落として、ルッスーリアはため息をついた。
セックスと殺し合いの違いなんて、わからないのよ、私には。
あの子はわかっているのかしら。わかるのかしら。知ってるのかしら。気づいているのかしら。

そうね、それは今考えることじゃないわね、と彼はそう思う。
それはその日がきたら考えることだわ、と彼は思う。
セックスも殺し合いも同じもの。
だったらやっぱりあの子は誰よりも多く殺しているのね――と、そんな当たり前のことを、ただ思った。

2008.11.6



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