ありふれた愛に関する記録・リプレイ・1

諦めろ、と男は言った。

灯りのない室内には足音を隠す毛足の長い絨毯、織り込まれた文様は遠い砂漠から運ばれた植物の葉の曲線。優美な曲線は色とりどりの糸で織り込まれているはず、今は定かに見えないが。かつて少女がその人生をかけて織り成した繊細で絶妙な織り地は、今は金を積み上げれば手に入る。光を嫌う絵画に模した扉の鍵は、ついているのか、いないのか。

諦めろ、とまた男は言った。

男の前の床に膝をつかされた小さな影。屈強な男に押さえ込まれた小さな小さな影から、低く呪詛のような言葉が返ってきた。
男はその応えを半分は予想して、半分は否定した。だがこういうだろうと思っていた、かなりの部分で。
男はもう一度言葉を重ねようとしたが、隣の椅子に座すもう一人の男がそれを制した。白い髪が光に浮かびあがる。それがほとんど色をなくしていたもので、艶もなく光を跳ね返す力も弱かった。年月が光を失わせた。

取引をしないかね? と老人は言った。

影は顔を上げた。光が跳ねた。少年の銀の髪が光を反射し、光る。きらきらと鮮やかに光るその光は鮮やかだ。光量が違っていた。
それが若さだということに、彼らは気がついていた。若さは常に眩しいものだ、年月の酸いをかみ分けたものにとっては。

取引をしないか、と老人は言った。

少年はそれを見てしまった。誘惑の声を聞いてしまった、地獄でメフィストフェレスに出会ったファウストのように。
悪魔の声は常に甘露だ。餓えている人間の喉を潤す。欲望をかなえようと囁く。
悪魔の誘いがいつも欲望と引き換えだ、それも自分だけの欲望と引き換えだ。それこそがもっとも大いなる力、尽きない願いだからだ。
少年はその声を聞いてしまった。

主の命は尽きていないことを告げられた。知っていた。知っていると答えなかったのは少年の最大の機転だ。
主の生命の確保と維持。そして拠点の黙認と彼らの命の確保を請われた。城は沈黙する、まるで遠い歴史の中の遺産のように。
取引など出来る立場ではないことはわかっている。彼は罰を受けるだけの身だ。負けたからだ。戦いに負けたものには罰が与えられる、当然だ。だが老人はいう、罪を償えと。
罪などない。少年には罪などひとつもなかった。負けたことは罪ではない。罪だとない――あるとしたらそれは彼らにある。彼らにこそ、ある。いや、彼らにしか、罪はない。老人と男にある。彼らは少年の主を傷つけた。深く、深く傷つけた。これが罪でなくてなんであろう!
そのことを男は知らなかった。老人は知っているのだろうか――それは少年にはわからなかった。

主は生きている。君が選ぶのは生きるか死ぬか。死は与えない。死ぬなら自死だ。天国の門は開かれない。自分で刃を首に当てればいい。
(天国! まだこの老人たちは天国の門が開いているなどと思っているのか!)
だがそうでなければ罪を償え。その命を、使わせろ。

悪魔は取引をもちかける。

少年は悪魔の誘いを聞く、聞いていけない悪魔の声を聞く。彼らの言葉は甘露、彼らの行為は毒薬、長く染みこんで身を殺すのは同じもの。
少年は目を伏せる、主の最期の声を思い出す。主を傷つけた老人へ、怒りのこもった瞳を向ける。
だがその奥で悪魔が声をひそめて囁く、生きているよ、と耳に柔らかい蜜を垂らす。
希望という名の灯りをともす、それが少年の身のうちの嵐の始まるを告げることも知らず、炎が燃え盛るのも知らず、しかし悪魔は蜜を垂らす。少年の願いを誘惑する。

やがて少年は身をかがめて老人の靴に口付けを落とす。そうして男たちに引き立てられ、部屋を出て行く。
少年の足取りは疲れきっていておぼつかない。背の高い、たくましい男に引き立てられる、細い少年の体は紙のように軽い。その重さも、存在すらも。
その後姿を見ながら老人と男は考える。
男は考える。これで、終わったのか?
老人は考える。彼の偽りの息子のいた存在感を、どうやって虚偽で埋めようかと。


彼らは年月を経ていたので忘れていた、彼らがかつて少年だったころを忘れていた。天を突く紅蓮の炎が猛り狂い、空を切り裂く稲妻が空気を震わせ、激しい嵐がなにもかもを吹き飛ばさんとしていた時代を忘れていた。あまりに昔のことだったので忘れていた、時間の澱が積み重なりすぎて忘れていたのだ。今も少年の瞳と姿にそれを感じていたのに、彼の主の怒りと無念を、すでにそれを思い出にしてしまったものの傲慢さで痛ましいとすら思っていたというのに。
彼らは忘れていた、そして侮っていた。若さというものの暴力的な力を。雨に打たれても発する熱量を、叫べどもかえらぬ木霊に声を重ねるその力を、畏れを知らぬ――いや、畏れているからこそ立ち向かおうとする、その魂を忘れていたのだ。

忘れること、日常を生きることの小狡さを彼らは知っていた、だから忘れていたのだ、純粋な感情を醸造できる僅かな時間の存在を。少年と彼の主はそれをした、その季節にいた、その時間を分かち合っていた。純粋な願いを作り上げ、磨きあげる時間を持っていた。どんな短時間でも構わない、それは百年の孤独をも凌駕することができることを忘れていた。彼らはそれを磨きあげていた、力と刃を手に入れていた、それを鍛えて磨き上げることを、誰よりも熱心に、ひたむきにしてしまっていた。わずか十数年の人生のほんの一時期、しかしそれで充分。
一生を決めるきっかけはそんなもの、彼らはそれを自覚していた。少なくとも少年は知っていた。
彼らが思うよりもずっと長い年月をかけなければ削り落とせない、そんな純度の高い感情の存在を忘れていた。若さを侮っていた。子供だと、まだ子供だと、これからいかようにもなるだろうと――そう思っていた。

契約は為された。悪魔は契約書に印をつけた。だが愚かなことに、彼らは魂を奪うことに失敗したのだ。
魂を奪わなければ契約など意味がないことに気がつかなかった。愚かにも。目が眩んでいたのだ、少年の鮮やかな銀の光に。眩しくて、目を細めてしまったのだ、目を閉じてしまったのだ。そこにある光をきちんと見据えなかったのだ、光量を見誤ったのだ。
それは月ではない。悪魔の同胞の月ではない。闇をひきたてる銀の光、移ろう季節の顔ではない。

悪魔が契約したのは星だ。
天を司る極の星、太陽すらもその手にして、常に天にある光、見えないがそこにある星、銀に燃える恒星、冷たくみえるが何よりも温度の高い青く白い星。世界を構成する起源、まだ青く、小さく、ガスに包まれているが光は強い。やがて荘厳な光を放って目を射る力を持っている。
悪魔の体を焼くことも厭わぬ炎、燃え盛って猛り狂う日を待っている。
星を起こしたのは彼らだ。地獄の門を自ら開いたのだ。彼らの罪によって、少年が断罪する大いなる罪によって。

それこそが彼らの罪でなくてなんであろう!


2008.11.5
またもやゆりかご8年捏造に挑戦。今回も外野です…。


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