ありふれた愛に関する記録・リプレイ・4


昔の話をするのは好きではなかった。
男には思い出せるような記憶がなかったし、青年にはろくな記憶がなかった。
昔話をして懐かしむ年齢には早すぎたし、懐かしいような思い出などほとんどないと言っていい。
だがその街角だけは二人で過ごした短い夏の記憶の一枚のうちのひとつ、箱入りにされていた御曹司を引っ張り出して歩いた日の、思い出の店がまだあった。

「寒いから止めるかぁ?」
「はっ、そんな年寄りでもねぇだろ」
「だよなぁ」
「カプチーノかヘーゼルだ。フルーツとクリームはパス」
「了解」
注文を言えば心得た部下は静かに席を立ってカウンターへ向かう。
陽だまりが動く短い名残の秋、午後になればすぐに影になる。
遅いバカンスには惜しい晴天、しかし夜には雨が降るらしい。
観光が嫌いなわけではない。場所などどこでもいいのだ。
問題なのは一緒に行く相手、勿論それは当然のこと。同じ景色を見た時間はあまりにも少ない、なら二人だけの特別を少しでも増やす努力をするべきだ。男はそれには諸手を上げて賛成する、長く時間は過ごしているが、間に離れた時期が長すぎて、まだそれを埋められた気が全然しない。多分これは死ぬまで持っていく不満だろう、男はそう思っている。
過去は戻せない、失った時間は戻らない。自分の中にあるこの記憶も含めて、それはもう「仕方ない」ものだと、一種の諦めに似た境地で受け入れることを覚えたのも最近のこと。いかんせん男はまだ若い、諦めを知る年にようやくなったばかり。
先の店で掴んできたリーフレットに眼を落とす。これから向かうトラッテリアの情報は頭に入っているから別に心配はない。青年はこういう時にあたりを見回して常に警戒を怠らないが、男にはそういう習慣がない。
ただ意識だけは閉じずにあたりの意識に気を配り、目で字を追いながら、自分たちに注がれる視線を無難に遣り過ごした。
自分の外見が人の注目を浴びる自覚はあるし、同行者が人目を引くことも熟知していた。どんなに気配を消していても、女のアンテナに引っかかってしまうのも。
仕方ない、女たちは美しいものが好きなのだ。男の部下は女の目を奪うに充分な美しさ、磨き上げた一級の工芸品の質を持っている。女の観賞に耐えるのも男の仕事、目を楽しませるのに悪い気はしない。
「ヘーゼルあったぜぇ」
男の前に青年が立つ。男が手にしたジェラードを受け取ってから青年は座る。音のしない綺麗な動き。普段からこうやって動けばいいのに、そう思うが口にはしない。これは青年の「よそゆき」の行動でもあるからだ。
向かいあってジェラードを食べる。甘さを控えたヘーゼルの苦味と歯ごたえはなかなかに男の好みだった。
「それなんだ?」
「カスケード」
「またそんなクソ甘いもんをよく食えるな」
「ほっとけ」
「うまいのか?」
「甘いぞ?」
「よこせ」
そう言って青年の手を引き寄せる。一口含めば確かに甘い。
香りだけでも甘ったるい。口直しに自分の分を口に入れる。
「食ってみるか?」
「くれんなら」
「口開けろ」
すぐに少し開いた口にヘーゼルをすくってスプーンを突っこむ。
はむ、と音がしそうな勢いで閉じる唇に少し指先が触れる。
舌で味わう表情を眺めているのは楽しい、最近ようやく食べ物をおいしそうに食べるようになった。
「斜め後ろの」
「ん?」
「一人でいる男――さっきから、おまえを見てるんだが」
「ああ、…」
「知ってる人間か?」
「ん、…なんか、…見覚えがあるような、…ないような…?」
「もうボケやがったのか?」
「んなことねぇ、…んー?」
青年はジェラードを口に放り込みながら考えている。
記憶力は悪くないはずだが、それがきちんと整理されているとは言い難いのが青年の悪い癖だ。
思い出すには時間がかかる、インデックスはぐちゃぐちゃだ。
男は今日は機嫌がいいのでそれを待っていてやっている。
自分の左横の女たちが、耳をそばだてて自分たちの会話を聞いているのを楽しんでいるので。
「あ」
ようやくライブラリの引き出しは開けられたようだ。
「思い出したか?」
「ああ、うん、多分、なぁ…? 十年…? そんくらいだなぁ…?」
「なんだ?」
「んー、昔なぁ…ちょっと、世話になったんだぁ…」
「そうか」
「挨拶、してきていいか?」
伺うように見てくる瞳が少し不安そう、そして不審そうなのを確認する。
十年前の知り合いといえば自分には関係ない時間の話だ、嫉妬を感じないわけではないが、今ここでこの男を見ているというのも気になる。これから向かうバカンスに水をさすような不安は取り除きたいと思う気持ちは男とて同じ、上司として許可をした。
顎を引けば青年はすっと立ち上がって、それこそ流れるようにしなやかに背後の席へ歩いてゆく。
テーブルに手をつく姿勢すらどこか芝居じみていて、そうしてあたりに誰かいないか確認していることが伺い知れた。

自分を狙うような物好きなど、もうそれほどこの世にはいないことを互いに知ってはいるが、長年の習慣が油断を許さない。殺気ならだれよりも早く反応できるが、好奇心と興味以外の感情にいまだ慣れていないのだ。
青年が話し掛けたのは少し頭頂部の薄い中年の男で、ぱっと見た限りでは教師か公務員の雰囲気だ。ひどく嬉しそうに青年に話し掛ける邪気のない笑顔。青年はそれに少しだけ表情を崩して答える。
男はそんな顔をする青年を好んでいたが、しかしやはり自分以外の人間にその笑顔を向けることに少なからず妬く気持ちはある。これが雨の守護者や跳ね馬ならば一瞬でも許さないところだが、相手が普通の人間ならば少しは許してやってもいいだろう。何しろ、自分がいない時間のことらしいので、強く言うことがいまだに出来ないからだ。
十代のほとんどをそうやって、埋めようのない喪失感となけなしの希望と、砂を噛むような毎日を過ごしていた青年のその過去を、男はいまだに聞くことができない。憎しみや悲しみや恨みや妬み、嫉み僻みその他の、汚い暗い感情なしに、それを聞きだせる自信が自分にないからだ。許してやるなんておこがましい、許されなくてはならないのは自分のほうだ。だが青年はそれすらも許してくれない、きっと何を聞いても謝罪の言葉しか口にしないだろう。
血反吐を吐くような謝罪など、一度聞けばもう十分。八年の倍の倍の年月を一緒に暮らしているころには、そんなこともあったと笑えるようになるかもしれないだろうが、今はまだ無理だ。
男はひどく穏やかな顔で青年を見る。青年はそれに答える。少し表情が柔らかくなる、警戒は解かないが目元が緩んでいる。全部懐かしいだけではない過去に傷ついているのは多分青年のほう、思い出したくない八年は本当は全部忘れてしまいたいことを知っている。
中年男は懐かしがっているが、青年は思い出に引きずられて少し額に影がよぎる。白い肌をくすませるようなことはなるべくしたくない、今夜の興を冷ますのは主義ではない。もういいだろう、ジェラードで甘くなった口の中をカフェで温めて席を立つ。待ち構えていた店員がカップを片付ける。
「スクアーロ」
わざと名前を呼ぶ。所有しているのだ、という含みをこめて。
中年男はこちらに視線をよこす。目元がふっと細められる。年長者の眼差しはどこか懐かしいものを見るような瞳で、ああ、この男は青年の、あの八年の時間のどこかを共有しているのだ、ということが知れた。
青年は名前を呼ばれたことに驚いたようだ。人前で名前を呼ぶのはあまりいいことではない。知られることは不利になる夜の住民であるはずの青年の、しかしその名に中年男は嬉しそうに笑った。
懐から名刺を出して青年に渡し、にこにこ笑って握手する。青年は少しだけ緊張を緩めて、テーブルについていた手を離してこちらに走ってきた。
そんなに急がなくても置いていったりしない、そして怒ってるわけじゃない……そう思いながら悪い気はしない、男は青年を見送る中年の男に目をやる。少しだけ頭を下げられる。目で挨拶。世話になったな、というつもりで。やわらかくあたたかい視線が追いかけてくるのを感じて、男はどこかくすぐったい気がしていたが、青年は男の腕を掴んで雑踏に紛れ込んだ。
「早く行こう」
「怒ってねぇよ」
「…こんなところで呼ぶな」
「照れてるのか?」
「…ちがっ、………」
どうやら半分は合っていたようだ。
あの中年男との関係は二人だけになったときにゆっくり聞くことにして、今はつかまれた二の腕の感触に酔っていてもいいだろう、などと男は思っていた。少しだけ感じていた引け目はもうない。そんなものは持っていっても邪魔なだけだ、短いバカンスを楽しもう。





バスオイルがいい香りで、男は至極満足だ。
青年の体から漂う花の香りは、気持ちよく鼻腔を刺激して気分がよくなる。
首の後ろの髪を梳けば、汗と混じったその香りは春を思わせる懐かしさだ。
熟れてくる体は本当にいい具合で、数回兆した熱は存分に注ぎ込んだあと、汗が引くのももったいないほどだ。合わさった部分が離れるのが惜しい、このまま寝てもいいが抱き寄せるほうがずっと気持ちがいいことも知っている。青年に頭を抱え込まれるのは熟睡の入り口、汗を残した肌の香りは懐かしく、男にとっては子守唄より有効だ。
「もういいのかぁ…?」
「まだする気か?」
「無茶いうなぁ…動けなくなったら困るだろぉい…」
「そうだな…、おまえを引きずって帰るのは面倒だしな」
「おい…」
「まだ足りないか?」
「…いんや…?」
眠いのか、首筋に纏わり付く銀の髪に指を入れて頭を撫でれば、語尾が掠れて聞こえなくなる。満たされたふうで深く息を吐く青年との行為は、今日はやけに甘ったるかった。
男に自覚はあった、少し優しくしたかったのだ。
傷などないから気にするな、そういいながら治らない怪我を包帯でぐるぐる巻いているこの愛人の、その傷に触らないように肌を撫でたかったのだ。欲しがるだけやって、乞われるままに熱を重ねた。白い肌が色めき、ゆるみ、背中を抱き寄せ、足を掴んだ。腰を合わせると骨の形が噛みあって、互いに気持ちよく揺らすことができた。
普段よりずっと狭いベッドはくっついて寝るにはちょうどいい。乗り上げるようにして心音を重ねれば、互いの体臭が混じって心地よい。ピローロークには最適なサイズかもしれないと思った。
「なんか夢みてるみてぇだなあ…」
「何がだ」
「ん、ん―? アンタとこうやってることがさぁ…、ぜんぶ、」
「夢なんぞにするなよ、カスが」
「だよなぁ…こんないい夢見るなんて、もったいねぇよなぁ…」
「ケチケチするな、そんくらい」
「ん…ぜーたく、してるよなあ…いま、オレさぁ…」
「こんなんでいいなんざ安いもんだな」
「安く、ないぞぉ…まだ、同じっくらい、だぁ…」
「まだまだだ。寝てたのと、起きてたのが同じくらいだ」
「ん、ん…そう、かなぁ…?」
とろとろと眠りそうな声は、撫でていればすぐに落ちそうだが、しかし肌が少し固くなっている。こんなときに嫌な話をするつもりはないが、まだ青年は眠るつもりはないのだろう。話が続いているのがその証拠、何か言いたいことがあるのか。
「寝物語ついでに聞いてやるぞ、なんでも」
「ははっ、……今日のボスさんはやさしいなぁ」
「オレが見てねぇおまえを、あのオヤジが見てたのかと思うと悔しいんだよ」
つい、本音が出る。今日はやはり、気分がいいのだろう。
場所を変えて営まれる夜の行為、普段と違う場所で過ごすのが、羽目を外したい気分になっているのかもしれない。
昔話になると、幹部たちが同じ屋根の下にいる、あの城では分が悪い。男だけがそれを知らない。
「へぇっ? …なに、言って…、」
「いい顔してたじゃねえか」
「あー、…まぁ、なぁ……久しぶり…っていうか……もう会えねぇって思ってたからよぉ…」
「会いたかったのか?」
「……んでもねぇ……あんま………会いたい……くねぇなぁ……」
ぐずぐず言葉を連ねるなんて、普段の青年らしくない。
部屋は宿では一番の上のランクのしつらえ、ベッドは丈夫でへたれないスプリングで有名なメーカーのダブル、それでも長身の男二人が抱き合って眠るには狭い。だから顔を見ることはしないで腕に抱く。胸に落ちる言葉はどこか湿っぽい、理由は推測できるが青年の口から聞いてやりたい。
まだ自分が眠っていた八年の話を全部、耐え切る自信はなかったが、しかし昼間会っていた男の表情が忘れられないのも事実。彼に、ほんの少し緩められた青年の表情も。あんな顔もできるのかと思ったら、ついらしくなく、名前を呼んだ。
素人の前で嫉妬心をあらわにするなんて、とんだガキの態度。しかたない、一緒に過ごしてまだ八年とすこし、青年の青い時期を知らなかったことをいまさら悔やんでも戻らないことを知っているだけに口惜しい。
あんな顔をしてやる人間のことを、自分が何も知らないということがほんの少し、悔しかった。何でも知りたいと思うのは傲慢だと知っているが、しかしそれこそ何もかも、あけわたすのを躊躇しないこの青年が甘やかすせいで、男は情人の隠し事が許せない。
…いや、許せないのではなく、知りたいと思う、ただそれだけなのかもしれない。いつまでも治らない傷を一人で抱えていないで、それを撫でることくらいは自分でも、少しは出来るのはないのかと、今では男は思うようになっていた。一緒に時間を重ねるようになって八年、ようやくイーブンになった。これから先が、勝負かもしれないとは思っている。
「あの頃はさぁ、結構、無茶されたんだよなぁ…まだ、オレ、ガキだったろ? 腕前はさぁ、お墨付きだったんだろうけど…ガキが好きな変態は多くってなぁ……そんで」
「……ああ」
心配するな、そういう気持ちをこめて髪を撫でる。肩が震えるのは寒いせいでもないし、まだ熱が残ってるからでもない。
「おまえの髪も目も、珍しいからな」
「だよなぁ…。そんなこと、言われたことあったかもしんねぇなぁ…たぶんなぁ……」
「……嫌なら喋るな」
「嫌、じゃねぇよ…、たぶん、……もう、終わったことだしなぁ……ホントいうと、…よく覚えてねぇんだよ、……」
「そうか」
人間の脳味噌は良く出来ている。たぶんこの青年の脳味噌は、嫌なことを本当に綺麗さっぱり忘れているのだろう。忘れてしまいたいと思えば、記憶は本当になくなってしまう。記憶にないことはなかったことになる、当事者がいなくなればそれはゼロなのだ。そうしなければ過ごせないほどの時間というものを男は想像してみるのだが、思いもつかなくてすぐに止めてしまう。
それを過ごしていたと思うともう、それだけで。
「それで、オマエを『使った』奴等は、まだ息してやがんのか」
「――たぶん、みんな、墓の中、じゃねぇかなぁ…」
「…そうか。そいつはよかったな、……カッ消す手間が、省ける」
「ボスさんはこぇえなぁ…」
少しだけ腕の中で青年が笑う、ような気がした。
背中を撫でる。驚くほど冷えてきた肌を、宥めるように触れるのは悪くない。
こうやって自分にすがりついてくる姿は男を満たす、普段は決して自分から力を抜かない背中、盾のように男の前に立ち、真っ先に敵を見つけて屠る優秀な犬が、完全に力をなくして抱きついてくるのは胸が苦しくなるような愛しさで、男の体を揺さぶっては熱を上げる。少しだけ、妬心が男の体の奥に炎をともす。子供のような支配欲、息苦しさを少しだけそれで焼き払う。
「争奪戦のあとなぁ…まとめて裏切ったんだぁ、……何人かは、勝手に、やったのも、いるけどよぉ……」
「おい」
「そんなことを口実にして、おまえに面倒なことになると、困るからなぁ…って思ったんだぜぇ…。まぁ、そんなこと、……あんま必要なかったけどなぁ……。裏切者として、結構…殺したんじゃないかと…思うんだよなぁ…」
「オレのせいだってのか?」
「そうじゃねぇよ。…ああいう下衆な取引したがるヤツはよぉ、それをネタにして、あんたに恥かかせようとか、すっからさぁ…」
青年の言おうとしている意味はわかる。
八年の消息不明の後で戻ってきた九代目の御曹司がいない間、彼がボスだった部隊の「使い方」について――分け与えてもらった甘味は、跡取であるからこそ価値がある――少しでも、『つかえる』と思えば、そこを突いてくるのは会社だろうが警察だろうがマフィアだろうが同じこと。もっとも、その程度の相手だったからこそ、青年が「使われた」のかもしれないが――という意味も、なかったとは言い切れまい。
力があるから使っていたが、立場としては娼婦以下に、軽んじられていたという事実。それを決めた相手への殺意は、今、胸に刻んだ。
「昼間の男とも寝たのか?」
「ああ、あいつはなぁ……誘ったんだけどよぉ、断られたんだぜぇ」
「ハッ! クソガキが好みじゃなかったんだろ」
「ゲイだと思ったんだけどよぉ…」
「それは.間違ってねぇだろうな」
「…え?」
「名刺の名前を眺めていたら思い出したんだが、…来年、欧州でも公開される映画の、原作者だ。国内でデビューしたんだが、今はアメリカに、恋人と住んでいる。同性婚が認められている州で、男と籍を入れている」
「へぇ…」
「もう十年近い仲らしい」
「そっかぁ……じゃ、しょうがねぇなぁ、……」
「ガキの色香じゃ、かなわなかった、ってことだろう」
「かもなぁ」
ようやく青年が声を上げて笑った。
肌が冷えている。少し長く話過ぎた。辛い話は体も心も冷やす。もう一度、髪の中から耳を探しあててキスをする。そこだけがほんのりと熱くなる。シーツの上で男の肩に置かれていた手が持ち上がって、男の髪の中で踊る。長く甲の高い指、手のひらが薄く、関節がよくわかる。指先が固く、ひらべったい部分で肌を撫でられると、ひどく気持ちがいいことを男はよく知っていた。
「なんだか知らねぇけどよぉ、……ありがとうって言われたぜぇ…?」
そんなことばを口にする青年の、どこか伺うような口調はやはり、妙に可愛らしいというか、あどけないというか。おまえだってもう三十だろうと思いながら、結局はあの、最初に出会った十五と十四の頃から、あまり変わっていないのではないかという気がしないでも、ない。
「貴様が知らねぇうちに、施しでもしたんだろうよ」
「でも、まぁ、悪くはなかった、かなぁ…? 世話になったんだぁ、何回か、貧血でぶっ倒れたとこ、休ませてくれたしなぁ…」
「ずいぶんなさけねぇ話だな」
「『仕事』がなぁ…無茶されて動けなくなったりしたんだぁ…ルッスが薬入れてくれたんだけどよぉ…、あんたの、…いるところまできたら限界で」
「馬鹿なオマエらしい」
「だよなぁ…ぶっ倒れてりゃ、世話ねぇよなぁ」
「死ぬぞ、フツー」
「ああ……」
今日は本当にしおらしい。昔話を聞きだすのははじめてではなかったが、今回の話はどこか感傷的すぎた。声が掠れるのが耳にさわる、もう黙らせるためにキスをするべきかと男は考える。
「過去のオレに嫉妬させるなんざ、娼婦も真っ青な手管じゃねぇか」
「……そういうつもり、じゃ、」
「もう寝ろ。明日、朝飯の前に走るぞ」
「…タフだなぁ、あんた…」
「旅行に出て気を抜くと太るからな」
「そんなこと気にしてんのかぁ?」
ようやく青年は顔を上げる。目元が少し白い。さっきまであんなに綺麗なサーモンピンクに染まっていたのに、昔の話が体を冷やしたか。
変わらず長い銀の髪を指で梳いて、枕の向こうに流して落とすと、肩を寄せてくるのを抱き寄せた。リネンにもラベンダーの香りが染みている、青年の肌に馴染んでいるのを満たされた心で受け取る。素直に肌を寄せてくるようになったのもここ数年、それを素直に手を伸ばして受け取れるようになったのも本当に近年のこと。素直になれなかった最初の数年が、今になれば酷く惜しかった。
「だいぶ冷えたな。…もう一回付き合うか?」
そう言って額を押し付ければ、手の中の青年の目元が緩む。どっちでもいいようなふうで足を絡めてくるのに、なだめるようにつきあった。







本当にランニングに出るとは思わなかったので、青年は乱れた髪の中から男の背中を見た。
顔を上げると男は青年に服を投げてよこす。真新しいスポーツウェア、こんなものを用意していたとは知らなかった。
男はすでに着替えて顔を洗っている、身支度を整えた姿は普段外に出ない生活をしているのにやけに健康的、肌の色艶もよくて働き盛りの色香が匂いたつよう。
本気で走るつもりだったのかと思ってついていったがそれほどでもなく、ゆっくりと三十分ほどあたりを走って戻ってきた。珍しい朝の景色の中で外を歩くのは、もしかしたら初めてかと思うと、これも男の心遣いなのかもしれないと青年は思った。
同じように走っているホテルの宿泊客も何人か、あたりにいくつかあるホテルの客人がのんびりとあたりを散策している。地元の人間もいるようだが、それはみな犬を連れていた。
人が少ないので街中を歩くより注目を浴びないのが楽だった。
軽く走ってホテルで朝食、サラダもスープもパニーニも、チーズもカフェもうまかった。男はとにかく舌が肥えていて、まずいものを黙って食べるなどということはまず、しない。その男が黙って食べているということは並以上の味だということ、バカンスだといっていきなり連れ出されたとはいえ、そのあたりの手回しは忘れないらしい。青年はどこにいってもそれなりのものを口にしている、主人と一緒に同じものを食べるので。
しかし今回は本当に二人だけ、仕事の話もあるがそれすらも余技のようなもの、事故や事件の心配はないわけではないが、組織の形が変わってからは、男は名代で顔を出す機会が増え、いまや国内経済界の若きリーダーとしてのほうが有名になっているほどだ。
偽名で泊まっているから名前は呼ばない、そうでなくても普段から互いの名を人前で呼ぶことはしない。特に表の仕事では。それで事足りるように、なった。
阿吽の呼吸を合わせてくるのは青年のほう、それが不快だと思ってた最初の数年が過ぎれば、最近ではもう空気のように慣れてきているところ。本当の空気のようになるにはまだ数年はかかるだろう。
再開からようやく八年、青年の麗しさもいよいよ盛りを迎えたばかり。容色も腕前も振る舞いも段取りも、極められて愛されて、いよいよ磨かれて光の照りも冴え冴えと、刃のように見とれることも多くなった。
「今日はどうすんだ?」
「午前中に美術館、それから午後は農場だ」
「今ぶどうの収穫時期だろうがぁ?」
「そうだ。それによって今期のワインの値付けもかわるだろう。出来がよければ城にケースで買うつもりだ」
「今年は雨がなかったから、出来はいいって話だけどなぁ」
「谷が一つ違えば味も変わる」
「へぇ」
「現地を見るのが一番だろうな。時間があったら別棟の工房と、あと皿焼いてる釜も見る」
「明日にしねぇかぁ?」
「そうだな。ドルチェもある」
「昼は少なくすっかなー…」
「まかせる」
「了解」
それだけ言ってカフェを飲む。流石にこれは青年が入れたほうがうまいと男は思う。
自分の一番好きなものは青年が入れるカフェだと、いつの間にか決まっていたのに苦笑した。
そうやって記憶が積み上げられる、生活が記憶になる、記憶が心に刻まれる。
一人じゃなくて二人の心に刻まれる、それを今は信じている。

おまえの声が聞こえる距離で、おまえに腕が届く場所で、この先を、一緒に過ごす時間を――――信じている。

2008.11.14
予想以上にベタ甘になってしまいました。こんなはずでは…あれ?



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