十五の夏・4


焦点がぼけるほど近くで見たスクアーロの睫毛は本当に白かった。
びっしりと目蓋にそって生えている長い睫毛は、まばたきすると本当に音がした。マッチ棒、何本乗るんだろう。
あ、本当に今、ばさって音がしたな。

「……」
距離を一センチだけ離した。
「………何してるんだぁ」
「なんだろね?」
「おまえおかしくなったんかぁ?」
妙にスクアーロの声が間延びしてる。唇に吐く息がかかる。
薄い上唇、そこも少し白い。
乾燥してるのか、少しかさかさしてた。ひび割れる寸前の感触だった。
傷がついてかさぶたになって剥けた後の皮が妙にすべすべしてて、ほかの部分との差があった。

「そうおもう?」
「おまえ、」
呼吸を飲み込みたい。

そんなことを考えて、俺はスクアーロの唇に、もう一度、触れた。
噛み付かれるかと思ったけど(鮫だけに)、そんなことはなかった。
そのかわり、反応されることもなく、唇を開かれることもなく、
――さすがに舌を入れるのは少し怖かったので、唇を何度かついばんで、皮膚を舐めるだけにした。
しつこく何度も触れているのが嫌になったのか、下の体が身じろいだので、終わりにした。

スクアーロの瞳は、本当にガラスみたいだった。








「少しは腕があがったみたいだなぁ?」
「これ、でもっ、…っ、かなり、……った、……」
「まぁ、さっきので三回は死んでるだろうがなぁ」

息が上がって言葉が出ない。
俺は地べたに転がって、みっともなく息を荒げている。
スクアーロは呼吸ひとつも乱さずに涼しい顔で、俺を見下ろしてニヤニヤ笑っているばかりだ。何度か大きく息を吐いて(吐かなければ吸うことができない)、身を返してゆっくりと起き上がる。ああ、なんだかあちこち痛い。
これでも本当は手加減されているんだろうなぁ、と思うんだけれど――寸止めなど存在しない剣を振るっているスクアーロの太刀筋は、確実に急所に入ってくるので、よけるのが精一杯だった。おかげで少し動くのにも息が切れる。

「うー、…」
「ふぅん」

ようやく座る姿勢になった俺の前にスクアーロは座り込んで、俺の体をぺたぺたと触る。

「ん、別に折れたりゆがんだりへっこんだりはしてねぇなぁ。内臓も骨も無事だぁ。起きあがれ、ヤマモトぉ」
「そう、だとは、思えないくらい、苦しいんだけど、…も、死ぬ」
「死ぬ死ぬいってるうちは死なねぇよ」
おまえが言うと洒落に聞こえない。


久しぶりにスクアーロと剣を交えた。
ヴァリアーの城の中庭の隅、木立の中にぽっかりと開いた場所での勝負。
真剣だと間違いなくこっちが殺されそうなので、
模擬刀をスクアーロが出してきて、それを握って始まった勝負は三本。
どのくらいやってたのかわからなかったけれど、終わったら滝のように汗が噴出してきて、
俺はみっともなくもその場に転がってしまったのだ。

スクアーロは見事だった。
長い手足を十分に使いこなし、走り、飛ぶ。見た目よりもずっと身が軽いのかもしれない。
宙を舞う姿の髪の先くらいしか、俺は捕まえることが出来なかった。踏み込もうとした一瞬早く逃げられ、かすかな隙に視界から消える。
早いだけでない太刀筋は、あたれば重く、粘り強かった。鍔迫り合いなら勝てそうな気がするのだが、スクアーロはあまりそこで粘るのが好きではないらしく、すぐに身を返してしまう。そしてすぐに突き返してくる。それを受ける。
早い。そして鋭い。
時々やけに重いのを混ぜてくるので手がしびれる。そうかと思うと軽く回数を重ねてくる。上からも、下からも返してくる――本当に、縦横無尽に太刀筋が変わるのだ。口元を少しゆがめながら、向かってくるスクアーロは本当に生き生きとしていて、まさにその名のとおり、大海を泳ぐ肉食の魚のようだった。

息がようやく落ち着いてきた。喉が痛い。俺はふらふらしながら立ち上がった。
スクアーロはこういうときに手を貸したりはしない。一緒になって立ち上がると、服の埃を叩いた。

「少しはよくなったみてぇだなぁ、見所あるぜぇえ」
「そう? それは嬉しいなぁ」
「ちったぁここまで来た甲斐はあったか?」
「あ、うん――なんか急でごめん、そっちだって暇じゃないんだろうし――」
「まったくだ。まぁたまたまオフだったからいいようなものだがなぁ、いなかったらどうするつもりだぁ」
「それは考えてなかった」
「ジャッポーネのバンビーノは暢気なもんだぁな」

そう言いながら、スクアーロの口調はどこか楽しそうだ。
俺ばかりが楽しいわけじゃないことを確認して、なんだかちょっと嬉しい。
こっちは結構ぼろぼろに服が汚れているのに、スクアーロのほうは綺麗なものだった。
まぁ実際に殺し合いでもないのに、スクアーロの服が汚れるなんてことはないんだろうけど。

スクアーロはこうやって昼間の光の中、風に髪をなびかせて、爽やかそうな汗に額を光らせていても、ここに生きているわけではない人間なのだ。それは忘れていいことではない――そうだ、こうやっていくぶん言い回しのあやしい言い方で日本語を喋っていても、にこやかに笑いかけてくれていても、本当は彼は光の中に生きている人ではない。
闇を跋扈する異形の怪物、血を屠り血を纏い、本当に刀を武器として使うことを厭わない暗殺者――死の天使。
銃を持つことも禁じられている日本で、この夏の大会まで野球をやってた俺の世界とは、本来は交わるはずのない人間なのだ。
そういうことを、本当に忘れてしまいそうになる。

「そろそろ帰るかぁ」
模擬刀を肩に担ぎ上げて、スクアーロはそう言いながら屋敷を見た。
「そういや今日ってザンザスいねぇの?」
「ん゛ぁ? ああ、ボスかぁ、いねぇよ」
「そうなんだ」
「そうじゃなきゃオマエらなんかここに入れるもんかぁ」
「そういうもん?」
「ボスはあんまこういうの好きじゃねぇからなぁ。つか、おまえんとこのボスがそもそもすっげぇ苦手だかんなぁ。逃げたのかもなぁ」
「へぇ…あんたんとこのボスにも苦手なもんとかあんの?」
「あるぜぇ? そりゃ。普通だろ?」
「へー。なんか、ザンザスってそういう好き嫌いとか、そういうんじゃなくて……なんだろ、そういうの? あんまわかんなさそうな気がするんだけど」
「そうでもないぜぇ? 割と、そうだなぁ、わかりやすいと思うけどなぁ、そういうの」
「そうなの? なんか信じられねぇけどなぁ」
「別に信じなくてもいいけどよ」
「ふーん?」

スクアーロはホントにわかりやすい。
彼のボスの話をすると、いつもどこか表情が柔らかくなる。
いつも特別な顔を見せるキーワードは一つだけだ、わかってるけどなんだか不思議な気分。
俺はそれを見ているとどこかもやもやするような、ぞわぞわするような、楽しいのか悔しいのかわからない気分になってくるのだ。
十ヶ月前の病室で見た、透明な瞳の病人はここにはいない。
あの時はもっとずっと瞳が暗かった、視線はずっと遠かった。こっちを見てもほとんど感情が沸いてこないようだった。
今はあの時とは違う、もっとずっと生気に溢れていて、よく喋って、結構よく笑う。
十ヶ月の間に何があって何がなかったのか、声に出して聞いてみたいのに。

「自分だけが知ってればいいってことかなぁ」
「は?」
「それって、自分はそこまで知ってるってことだろ?」
「はぁ?」
「…違うの?」
なんなんだ。この反応。スクアーロは時々こういう顔をするんだ、とあの時も思ったけど、今も子供みたいな顔をした。こうして向き合って話をしていると、なんだろう、妙に遠いときと、びっくりするほど近くにいるときがあって、そのアンバランスさにちょっと驚くことがある。
そしてそんな隙のあるスクアーロはやっぱりガラス玉みたいな目をしていて、10ヶ月前のあの病室とは違う、庭の緑を写している。
「何が違うんだぁ…?」
「あー、もしかして俺、牽制されてんのかなぁ」
「意味わかるように話せよ」
「ん?」
懐に入るのを拒まれているわけじゃない、ということがよくわかった。
今日はずいぶん、キラキラ光ってるんだな、スクアーロの目玉。





「どうしたのだ、山本、顔、腫れてるぞ?」
「あー…ちょっとね。殴られちゃった」
「…? 貴様は剣をあわせにきたのではないのか?」
「そうだけど?」
「打撲…ではないようだが、帰ったら冷やさないと青くなるぞ」
「そだね」
「…いいことあったのか?」
「ん。つかなんでそんなにいろいろ持ってるの」
「ああ、これはルッスーリアがよこしたのだ。日本への土産にするといいと言われたのでな、京子に持っていくことにするのだ」
「…気が効くんだな?」
「明日も時間があるから、ここに来る約束をしたのだ! 貴様はどうする」
「んー…? 流石に逃げられるかなぁ…泳ぐの、速そうだし」
「はぁ?」
「明日考えるよ」
車は森の中を抜ける。速度はなかなか上がらない。長い欧州の日が暮れる、たぶんスモークの向こうにヴァリアーの城が遠くなっていくんだろう。車の中の空調は日本の車よりもずっと高くて、しかしそれで不快に感じないのだから、やっぱり湿度が全然違うんだろうなぁ、と俺はとりとめもないことを考えた。そうでなければ、口元がニヤけてしまってどうしようもなくなりそうだからだ。
幸いまだこっちに滞在する日は残ってる。その間にずっと、あの城にいるとは思えないけれど――まさかね?
俺は本部に戻る車の中で、さてこの殴られた跡をどうやってツナと、あと獄寺にごまかそうか、それの言い訳を考え続けていた。

生気に溢れたスクアーロの唇は剣を切り結んだ後だったからなのか、10ヶ月前とは雲泥の差で、あたたかくて湿っていた。
目玉はガラス玉みたいだったが、光を写してくるくる色が変わったし、なによりそこに自分が写っていた。ちゃんと。瞬きすると音がするほど睫毛が長くて綺麗だったが、それよりも剣呑な目付きのほうが印象に残った。自分を見つめ返す瞳に写る自分がどんなふうに見えるのか――別に知らなくても、構わない気がした。

真正面から、俺を見つめ返してくる。銀色の髪が揺れる、毛先が翻る、指先の残像が残る、声が響く。そう、やっぱりあの声、あの速さ、あの髪、あの表情がスクアーロなのだ。毎日思い浮かべていた、何度も何度もトレースした、軽い背中、回る肩先、低く、高く、重く、速い。
この夏の輝きを、たぶんきっと忘れられない予感がした。



2008.10.25
終わ…った…。
なんだか最初どうするつもりで書き始めていたのか全然思い出せない。見切り発車で書くものじゃないですね…(笑)。
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