世界のどこかであったこと
ジーンは最近恋をしている。
台所の親類に口を効いてもらって、下働きの雑用から、このリゾートホテルに勤め始めて、もう4年になる。
そろそろいいお年頃だと、その親類の叔母は笑う。

でも、いいこと。わたしたちはゲストをおもてなしするスタッフ。けして、ゲストに恋をしてはいけないよ。
あのひとたちはどこかからやってきて、そしてどこかにいくために、ここにひととき羽根を休めている渡り鳥のようなもの。
巣を作るのはここではないんだよ。

そう、言い聞かされていたはずなのに。
厨房に勤めるヤンが、最近やっとデザートの飾りつけをまかされるようなったんだ、という自慢話に目を輝かせていたのはほんの少し前のことで、今も思い出せるけれど、そのときのトキメキはもう、遠い遠い記憶の彼方へやってしまった。

だって恋をしてしまったから。
叔母の言葉を心に刻んでいたはずだったのに、若い娘はひとめで恋に落ちてしまった。
遠い異国の空気を纏った、夕焼けと同じ色の瞳をした男に。

その人はたったひとりでやってきて、ずっとひとりきりで空を見ていた。たったひとりで食事をして、たった一人で夕日を見ていた。
ようやくコテージの掃除をまかされるようになったジーンが、プールの水に浮かんだ葉を、網で拾っているそのときに、その人はやってきてコテージの窓を開けた。
まるでそこにある何かの置物のようにジーンを見て、視線が通り過ぎて、また戻ってきたのを感じた。客に見られるのは慣れていたので、ジーンは顔をあげて、このコテージを数日使うことになるだろう客に会釈をした。
南国の明るい光の中で、鮮やかなシャツに白いコットンパンツという、リゾート客としてありきたりの服装をしていたのにもかかわらず、ジーンはその男から夜を感じた。
空気の動かない嵐の前の夜、ひたひたと押し寄せる空気の圧力に胸が詰まるようなあの、湿った重さをその男から感じた。
その暗さが、ジーンの胸を揺さぶった。彼女に胸に、恋の嵐が吹き荒れた。
男が濃い色のサングラスを外して、黒い髪の間から、その暗赤色の瞳を見せたそのときはもう、彼女は嵐の中を彷徨う小船に乗っていた。

二十代の半ば頃の青年にしては静かな男だった。一人で町を歩き、まとわりつく物売りを目でいなした。毎日二時間プールで泳いで、午後はずっと本を読んでいた。
夜はレストランへ行き、毎日違う女に声をかけられていた。それを拒むこともせず、楽しそうに見える会話を繰り返しながら、必ず最後は別れて一人で部屋に帰った。
ジーンはそれをずっと見ていた。見れる間はなるべく、その男の全てを見ていた。彼のいるコテージの掃除はなるべくゆっくりしてみたが、それにも限度があって、泣き出したくなりそうな気分で部屋を出た。並んでいるコテージの掃除を終わらせ、クリーニングしたシャツを部屋に配り、シーツを業者に出す手伝いをしながら、ジーンはその男のことを考えた。

男は期限を決めず部屋を借りていた。一週間分を前払いした。
「あれはものすごいお金持ちだ」と、フロントのサクヤは言っていた。クリーニングしたシャツの手触りがぜんぜん違っていたという。あのシャツ一枚で、俺たちの半年、いや、一年の給料が吹っ飛ぶよ、と。
「上流の階級の人間だね」と、厨房のカレントが言っていた。カレントはヤンの上司で、叔母の夫だ。
いたんでいた食材を指摘されて、調べたら全部違う店から仕入れていたんだ。仕入れの商人が差額を懐に入れていたことがわかった、とも。
振る舞いは優雅だった。レストランで、バーで、誘われた女性には恥をかかせず、いい気分にして酒を振る舞い、それでいてベッドまでは付き合わなかった。そこがいっそう、女性をうっとりと夢見心地にさせ、彼はいつも人の注目を集めた。

一週間が過ぎても、男はずっと一人だった。
雨の日は一日、窓際で外を見ていた。
雨がお好きなんですか、そう問えば、好きになったことなど一度もないと答えられた。
ただとても珍しいからだ、とも。
どこの国からやってきたのか、知りたいとジーンは思った。
男はどこかいつも乾いていた。
なぜそんなことを思うのかわからなかったが、ジーンはそう思った。

ジーンは部屋に食事を朝食を運ぶことを許された。
男はチップを弾んでくれたので、ジーンは少しだけ着飾って、男の前に出ることが出来た。
男はジーンの聞いたことには返事をした。
明確に答えられないことは黙っていた。
まだ若いのにひどく寂しそうな男だった。

一度だけ、恋人はいないのか、と聞いたことがあった。

「お仕事でもないのに、一週間もいらっしゃるなんて珍しいと」
「失恋でもしたのかと?」
「そうですね、……興味があります」
「恋にもなっていないのに、失恋になるわけがない」

それは、恋にしたいということなのか、とジーンは思った。

男は誰かを待っている。
何かを待っているようだった。

いつも遠くの空を眺めていた。
いつもドアの向こうを気にしていた。
いつも誰かのことを呼ぶ寸前で口を閉じた。

そんなときの男はとても幼い顔をした。
ジーンと同じくらいの年齢の顔をした。

二週間が過ぎたあと、ジーンはいつものようにプールの水面に浮かんだ葉を網ですくっていた。
昨日までの嵐が過ぎて、プールの上はすくってもすくっても葉が残っていた。
庭は落ち葉でいっぱいで、今日はこの掃除だけで終わってしまいそうだ、と思うとジーンは憂鬱になった。
他の部屋を終わらせて、ジーンはようやくその男の部屋にやってきた。

男は珍しく部屋にいた。
この時間はいつも、コテージの周りを散歩して、海まで行って戻ってくるのを常にしていた。
窓際の椅子に足を投げ出して、男は落ち葉でいっぱいのプールを見ていた。
ジーンは急いで、プールの葉を掬い上げた。
すくってもすくっても落ち葉は減らなかった。
底に沈んだ葉が、嵐で攪拌されたプールから浮かび上がってきていた。
いままで男の顔が見たくて、掃除をおざなりにしていた結果が出てしまったのだろうか、とジーンは思った。
そんなことはなかったが。

半分ほどプールの葉をすくいおわったころ、何か大きな音がした。
それは足音なのではないかと思われた。
足音にしては大きすぎた。
コテージを踏み鳴らして壊すんじゃないかとジーンは思った。
それはこのコテージに向かってきた。
恐ろしい魔神がやってきたのかとジーンは思った。
それほど凄い音だった。

男が目を開いて、ゆっくりと椅子から上半身を起こしたのが見えた。

ドアが壊れると思うほど、大きな音がしてドアが開いた。

そこから先、何の音がしたのかジーンにはわからなかった。
あまりに大きな音がして、コテージが震えるほどの大音響で、何かが叫んだ声に驚いて、ジーンはそのまま、プールに落ちてしまったからだ。

落ち込んだプールの水面に葉が浮かんでいた。
ごぼごごと水の音がして、ジーンは姿勢を正して水面に浮かび上がった。
手をついてなんとか水から体を出し、ずぶぬれのままプールサイドにあがった。


あたりはとても静かだった。


ジーンはさっきの大音響がいったいなんだったのかと思ってあたりを見回した。
コテージは壊れてもいなかった。
窓ガラスは割れてもいなかった。


あたりはとても静かだった。


ジーンはコテージの中を見た。


彼女はそこに、固く抱き合った恋人たちの姿を見た。


長い長い銀色の髪が、男を覆い尽くしていた。
何か長い細い銀色のものが、男とかたく抱き合っていた。
男はあの暗赤色の目を伏せて、自分の体の上に流れている銀色の――長い長い銀の髪を、その下にある体を、この世でただひとつの何かのように、固く固く抱きしめていた。

長い抱擁がほどけると、男は自分の体に抱きついてた銀色の長い髪をかきわけて、その下から高い鼻を探しあてた。
そして、その下にあると思われる唇に、自分のそれを重ねた。





ジーンの恋は、そこで終わった。

「だから言ったでしょ」
叔母の渡してくれたカクテルには、アルコ―ルが少し入っていて、悲しい胸の破れたところを、少しだけ繕ってくれた。






2010..2.22
痴話喧嘩がいつも大騒ぎになる二人。年に一回くらいこういうことがある三十路。
ブログ掲載は2009年6月30日
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