銀鱗抄
何をするというわけでもない。以前ならこの前に、手が出て殴られたり、髪をくしゃくしゃに乱されたり、唇が腫れあがるまで吸い付かれて、噛み付かれて、顎が痛くなるまで呼吸を奪われた。こんなになにも、何もないまま、こんなことになることはなかった。

シーツは乾いている。
スプリングはきいている。
ききすぎて気持ちが悪くなることがある。
今は、その中に閉じ込められているような気がする。
何をする、わけでもない。
ただ、――。

スクアーロの耳のすぐ近くで、ザンザスの熱い呼吸の音が聞こえる。視界の半分は黒い髪に覆われていて、体のほとんどは、その髪の持ち主の熱で覆われている。世界から隠そうとでもするように、全身、くまなく体重をかけてくるようになった。息が浅くしか出来ない。脳が酸欠になっててでもいるせいなのか、どこかとろりとした眠気が、意識を塗りつぶそうとする。
何か言っているのはわかる。けれど、その言葉の意味を、この耳は正しく取ることが出来ない。聞こえないふりをすることばかり、上手くなってしまったと、そうスクアーロは思う。
さすがに少し苦しくて、僅かな隙間に力を入れて、体をずらす。それだけで、一層スクアーロの体の上で、大きな背中が腕にも足にも力を入れて、ぎゅうぎゅう抱きついてくるのがわかる。
ああ、頭を撫でてやりたい。
背中に手を伸ばして、大きな背中を撫でてやりたい。
熱い肌を撫でればきっと、泣きたくなるほど気持ちがいいのに違いないのに。

「なぁ」

声を出すのは久しぶりなような気がした。こうして愛しい男に声を、かけることも久しくないような気がしていた。そんなことは勿論なかったが――なかったのだが。

「せめてなんかかけようぜぇ…このまま寝たら、風邪、ひくだろぉ…?」

縛り付けられているように、四肢が少しも動かせない。
せめて膝だけも立てたいのに、それも許さないとばかりに、男の腕がスクアーロの、細い、薄い体を戒めていた。抱きしめるというよりは戒め、全身で、逃げないようにしているかのように――ベッドとの隙間に閉じ込めているかのように。

「なぁ、……風邪引くぜぇ、…なぁ、なぁ」
「スクアーロ」

声が枯れているのは、堪えているからだ、ということを、スクアーロは知っている。知ってしまっている。
肩はいつも濡れているのにももう、慣れた。

「なぁ、…ザンザス、起きろよ。……な?」

右手だけでも動かせないかと、男の腕の中から引き出そうとする。肩が動くだけで、びくっと震える男の肩が、背中が、抱きしめたくてしかたない。なのに。

「なぁ、…俺の上で死ぬつもりかよぉ……なぁ、な?」

ようやく少し、腕の力が緩まる。体をひねって、右手を引き抜く。おかしな形になって、きっと抱きにくくなったのだろう、体の上にあった男が肘をついて、ようやく押しつぶしていた胸を離してくれた。息を吸う。頭にかかっていた霧が晴れる。

「なぁ、……寝る前にシャワー浴びて、歯を磨いて、ちゃんと寝ようぜぇ…? 今日は寒いからよぉ、風邪引くぜぇ、な?」

手を伸ばして垂れた前髪を払う。男と目を合わせる。男の透明な暗赤色の中に、自分が映っていることにスクアーロは安堵する。
まだ光がある。自分にも、男にも。

頬を撫でる手をとられる。その手の平にキスをされる。ぞくっとする。そんなところが感じるなんて、いままで全然、知らなかった。
10年近く過ごしてきた閨事の最中にも、そこまでは知らなかった。
足指を舐められたことはあったが、手の指の経験は少なかった。
感じるようになったのはここ最近のことだ。

「なぁ、おまえ、肌が冷たいぞぉ、……。おまえが冷たいの、俺は嫌だからなぁ」

唇は熱いのに、触れる頬が冷たかった。最近はいつも冷たくて、濡れていて、荒れていた。
手首を伝う舌だけは燃えるように熱いのに、他の部分がどこもかしこも冷たかった。
いつも熱かった。興奮するとすぐに熱が上がった。触れるといつも熱かった。平熱が高いのかもしれない。普段からほんのり、暖かい肌に触れるのが、スクアーロは本当に好きだった。夏でも気にせず触れていて、暑いから離せ、と殴られるまで触れていた。
首に手を回して抱きつくと、興奮した背中が燃えるように熱くなって、汗ばんでくるのが嬉しかった。吐息も湿っていていつも熱かった。熱帯の林の中で雨を浴びているような気がしていた。

「眠くねぇ」
「眠れよぉ」

男は眠りが浅かった。
昔から、スクアーロが起きているときにはすぐに目を覚ました。落ち着いて眠れるようになったのは、本当にここ最近のことだった。自分が傍にいるときだけ、深く、夢も見ないで眠っていることを、知るのは嬉しいことだった。
今は本当に、ちゃんと寝ている顔を見ることの方が少ない。

「一緒に寝てやるからよぉ」
「あたりめぇだ」

細い体を抱きしめられる。抱きしめるというよりはすがりついているような姿勢で、懐にもぐりこまれてくすぐったくなる。ふかふかのクッションに背を預けるとラクになった。敷きこんだ髪を引きずり出されて、うなじをそっと、撫でられた。

半分しか残らなかった左腕の下に手を差し入れられて、ぎゅうと抱きしめられる。
その腕ではもう、このさびしい男を抱きしめることは出来ないのだ。
子どものようにすがりつく大きな男の、重さがただ、やるせなかった。



2010..2.22
ブログコネタ。あのスクアーロショックをどうしよう…ともにゃってた後の話。
これが「水槽の中のさかな」になるようなそんな感じです。
まー、そんなことになりそうもなくてよかったなー、ということで再録してみました。
ブログ掲載は2009年10月15日
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