小学校の通学路から少し離れたところにその屋敷はある。
学校に通いなれた子供が、あたりを見回せばすぐに目に入るところ。目の前は広く畑になっていて、春にはれんげで一面、紫色になる。
その向こうにながいこと、人の気配のないままの、大きな大きな広い洋館があった。
「おばけがでる」「ひとさらいがすんでいる」「どろぼうがあつまっている」「ねこやしき」「いなくなったどうぶつがあそこにいる」「死んだねこや犬のたましいを呼ぶことができる」「ひとさらいのいえ」「まほうつかいがすんでいる」「おだいじんがいる」
などなど、子供同士の噂の的にながいこと、さらされつづけてきた屋敷だ。
古そうに見えるがまだ三十年ほど、つくりがしっかりしているので外見の古びたイメージにくらべると、それほどすみごこちは悪くない。監理している不動産屋は年に数回やってきて空気をいれかえているし、残されている上質な家具には白い布がほこりよけにかけられていて、高い物件としての価値を維持されていた。
数回映画の撮影に使われ、テレビドラマの撮影にも何度も使われた。
大きな玄関ホールは吹き抜け、手すりはくすんでいるけれどどっしりとしたつくり、部屋は思ったより多くなくて古い物件なのに二階にもちゃんと水周りが揃っている。
そんな屋敷に最近、ようやく人が住むようになったという。
毎日それを眺めている子供が最初に気がついた。次に近所を犬を連れて散歩する引退した年寄りの間で噂になり、造園業者と配管業者が入るころには、あたりの人の間ではかなり、話題になっていたのは確かなこと。
れんげの花の畑の中にぽつんと立っている洋館の、住人はたいそう、人の興味をひいたのだが。
子供はご飯を食べなかった。普段はうるさいくらいにぎゃーぎゃー言って兄に怒られているのに、今日は珍しく、だんまりなので、母親は不思議に思った。熱でもなければ子供は止まらない。黙っているときは大抵、熱があるときだ。
「どうしたの?熱があるの?」
「ない」
ほんと? といいながら額に手をやる。熱くはない。ご飯食べられる、と聞けば平気だ、と言う。その割には口が動かない。もそもそ。食事が終わったら熱を測らなくては。隣で兄がちょっかいを出す。少し黙っていたがようやく元気になって、「なにすんだよー!」と喧嘩しはじめた。やれやれ、と母親はため息をつく。
子供は何かいいたげにしていたが言わずに黙り込んでいた。気になったが、そのうち我慢できず話をするだろう。子供は秘密が守れないからだ。
母親はそう思っていたが、子供は話をしなかった。
あの家には白いあくまがすんでいるらしい。
いつのまにかそんな噂がたってきた。
クラスの中でいちばんいたずらっこのたくやたちが、その家に忍び込んだら、真っ白な悪魔が髪を振り乱して怒鳴りつけてきたという話だった。冗談だろう、とゆうやは思った。けんすけも思った。さくやもそう思った。思ったので、少し家に帰るのには遠回りだったけど、そのおやしき(子供たちの間では『ばるてい』とよばれていた。なんでばるていなのかは知らない)に行ってみることにした。
小学5年になるゆうやは、弟の同級生のたくやが言ってたんだ、という話を半分嘘だと思っていた。だからともだちのけんすけとさくやにその話をした。ふたりも冗談だろうと思った。
でもせっかくだから見に行くか、という話はすぐにまとまった。
金曜の放課後が、三人が集まって夕方まで遊べる時間だ。それ以外の日は毎日、なにかしらの用事があって全員でそろって遊べない。小学生は忙しい。
三人は学校帰りに一緒になって、家に帰るのと少しルートが違う道を歩いた。
おやしきはあいかわらず、なんにもない畑のまんなかにぽつんと立っていた。れんげが咲いていて綺麗なじゅうたんになっていて、一角はなにかのはっぱが植わっていた。
畑の中の道を歩いてゆく。おやしきのまわりには何もなくて、やってくる人はまるみえだった。前に見たときよりもなんだか明るくなっている。
さくやが「木がない」と指差した。
たしかに、最近切ったばっかりな枝が剥き出しになっていた。
先がほわほわしているのははっぱが出ているからだろうか。
高い塀の中は近くにいかないと覗けず、まわりを囲っていた塀は色が変わっていた。
昔は壊れたところから中に入れたが、もう体が大きくなってしまったので入れない。どこか入れるところがないかと三人で、屋敷の周りをぐるっと回ったら、裏の勝手口が開いていて入れた。三人はあたりをうかがいながら中に入った。
中はがらんとした空き地というか地面で、掘り返したあとが半分、植えたばかりの芝生が半分だった。なにか骨みたいなものが植えてあった。芽を出している。
隠れるところがあまりない庭の中をうろうろしながら、三人は家の中をうかがった。
人の声が全然しなかった。車もない。
だれか住んでいるのかどうか、こどもたちにはよくわからない。
三人の中で一番本を読んでいるけんすけが、「洗濯物とか干してあればわかるかも」といったが、そんなものは見えなかった。
二階のベランダには高い柵があって、子供の目線では届かない。
「だれもいないのかな」
「でも庭にはなんかしたあとがある」
「いるんかな」
「仕事で家にいないのかも」
「じゃあなんで後ろが開いてるの」
「ドロボウに入られたとか!?」
「えっ、マジかよ」
「みつかったらヤバくね!?」
いまさらながらに怖くなってきて、三人は逃げようと思った。
もしかしていま、このお屋敷の中で泥棒が金目のものを物色しているのかもしれない…! と思うと、子供たちはドキドキしてきて止まらなくなった。
そのとき、玄関のドアが音もなく開いた。
「………!!」
声も出ないほど驚いたこどもたちの前に、中から人が出てきた。
ものすごく背の高い男の人。
半分白くなっている髪が頭に残っていて、黒と赤の服を着ていた。
たぶんおじいちゃんな年齢のひと。
ふっと顔を上げたら、おどろくほど鼻が高くてほりが深く、日本人の顔じゃなかった。
「………!!!!!!!」
こどもたちはびっくりして、そのまま完全に固まった。
足が震えて動けなかった。
男はゆっくり、ほんとうにゆっくり歩いてきた。
踊るように。
そうして子供たちの前に立ち止まった。
じろりと子供たちを見下ろした。
あまりの怖さに、こどもたちは腰が抜けて一歩も動けなくなっていた。
その男は血のような赤い目をしていた。
そんな瞳を、子供たちは見たことがなかった。
赤い目の背の高い男ににらまれて、子供たちはがくがくと震え始めた。
「……おい」
男が子どもに声をかけた。
かわいそうなほど子供はびくっと震え(たぶん男には子供が飛び跳ねたように見えただろう)、「ひっ」と小さくうめいてあとずさった。
「どこから入ってきた?」
「……っ、…………」
喉がからからで、返事が出来ない。
一人がようやく、蚊の鳴くような声で何か言った。
男は舌打ちをした。
もう本当に子供たちは怖くて怖くて、泣きそうになっていた。
足が地面にはりついたように動かない。
逃げなくちゃ、と全員が思っていた。
とにかく逃げなくちゃいけない。
こわい。にげなくちゃいけない。
「また開けっ放しで行きやがったか。あのドカスが」
男はそういうと、子供たちの額をちょん、と指先でつついた。
「うわぁああああああ
あああああああああ
!!!!!」
まるで魔法がとけたように、こどもたちは足が動いた。
悲鳴だかうめきだかなんだかわからないなにかの声を上げながら、子供たちは一目散に開いていた裏の木戸から走り去った。
後には、赤い目の男だけが残された。
買い物から戻ってきたスクアーロは、玄関ホールのベンチで、居眠りをしているザンザスに驚いた。
起きてるなら手伝えと言って車の中にある荷物を運ばせる。
「今度はちゃんと一緒に買い物に行こうぜぇ。オレだけで選んでるとなんか落ち着かねぇ」
ミニバンの後部座席は荷物でいっぱいだった。
「おまえまた裏閉め忘れただろう。子供が入ってきてたぜ」
「ぁあ?またかぁ?」
「なんでこう毎日毎日ガキが入ってくるんだ…?」
「近くに小学校があるからなぁ」
一度で運べないので、数回車と玄関を往復する。
「そんなに珍しいもんか?」
「まぁ日本人は外国人はみんな珍しいんだろ。この家、しばらく誰も住んでなかったって話だし」
「……めんどくせぇな」
結構いろいろある。運び終わると、スクアーロは車の鍵を閉めて、一緒に家の中に入ってきた。
「一回庭を開放でもするかぁ?」
そんなことを言いながら、スクアーロはにやにや笑った。そうすると大変、底意地の悪い顔になる。
「…そんなことしてどうするんだ」
ザンザスはうんさりした顔でそれに答える。もちろんスクアーロは、本気でそんなことを言っているわけではない。
「子供がこそこそ入ってくるのはなくなると思うぜぇ? ガキは面倒だからなぁ、親がついてきやがる」
「全然ゆっくりできねぇ……」
はぁ、とため息をつくザンザスの背中を軽く叩いて、キッチンへ向かった。
「まだそんなに年寄りになったわけじゃねぇだろ。60にもなってねぇじゃねぇか」
「オレは引退したんだ。隠居爺ィになりにわざわざ日本に来たってぇのに」
「なってるじゃねぇかぁ。外に出ないで家の中で本ばっかり読んでるのの、どこが隠居爺ィじゃないってんだぁ?」
そういいながら、パーコレータにコーヒーの粉を注いで火にかける。
「あー、そういやツナヨシから電話あったぞ」
「オレには用がない」
「んなこというなぁ」
湯が沸く。
カプチーノの香りが部屋に漂ってきた。
二人して荷物をあけて、台所に必要なものをより分ける。
スクアーロは冷蔵庫に食料を詰め込み始めた。
「お祝い送ろうかって言ってんだ、せいぜいなんかねだろうぜぇ」
「アイツから貰うもんはなんか呪われてそうだ…」
「んなわけねぇだろ、ザンザス」
「おまえが考えろ」
「えー」
カタカタ鳴る音が途切れる。
ザンザスがカップを出して、二人ぶんのカプチーノを注いだ。
「この菓子食う?」
「もらう。一個くれ」
「はいよ」
箱からひとつ、クリームを挟んだウエハースを出す。
ばりんと齧りながら、コーヒーを飲む。
「今日はどうする?」
「オレがやる。買ってきただろうな?」
「あったぜぇ。つか今度時間あるなら一緒に行こうぜぇ」
「そうだな」
「そのほうがアンタも好きなもん選べるだろぉ? 日本のスーパーにも慣れないとなぁ」
「日本の肉も上手いもんだ」
「だよなー!オレは魚がどこいっても新鮮でうれしいぜぇ!」
「Un tonnoがあればいいんだろ、おまえは」
「まぁそうだけどな」
そのおやしきには白いあくまと赤いまものが住んでいるという。
家にもどったこどもたちは、
今日あったことを誰にも言わないと
固く誓い合った。
もちろんビビって逃げたことなど
はずかしいことであったし、
親に言ったら怒られるに決まっている。
思い返せば返すほど、
あの男は本当に恐ろしかった。
夢に見た。
真っ赤な目の悪魔に追い掛け回され、
おねしょする直前だった。
白いあくまの話と赤いまものの話は
別ルートで子供たちの間に広まり、
混ざって広がって混ざって、
親のところに届くまでは
案外、すぐだった。
町内会の集まりに出たスクアーロが、
おばさんたちの嵐の追及に合う、
ちょっと前の話だ。