全時代的目撃談・3
なんとなく続いています。その2


一度起きてまたすぐに寝たような記憶がおぼろげにあるが、気がついたら朝だった。
呆然としたザンザスは布団の中で窓の外を眺め、部屋の中の時計を探したが、どこにもそれらしいものがない。しかも隣の布団は綺麗に畳まれていて、すでに体温も感じられない。
「……信じられねぇ……」
頭も重い。二日酔いをするのも久しぶりだった。日本酒は水のように軽くて甘いがどうにも体に合わない。しかし口当たりがいいのでつい深酒になる――夕べのワインも悪かったのか、その前に風呂に入ったせいもあるのだろうか――そんなことを思いながら。
目にした先には部屋から続く箱庭。石が詰まれた先には、樽になみなみと湯がたたえられている。源泉を持つ宿ならではの、ぜいたくな使い方。風呂にこれだけ水を使うということの贅沢さを、何より知っている国の人間であるザンザスは、ふとそれに目を奪われて。
酔い覚ましにでも入るかと、はだけまくった浴衣のまま、布団から這い出した。


出来れば三日に一回は走りたい。本当は毎日走りたいが、旅に出ている間はそうもいくまい。それに朝、走る元気があるほど体力が残っているようなことは、ここ一週間ほとんどなかった。大分なまっているかと思ってつい、その気になって走りすぎた。一時間くらいで戻るつもりで、ついどんどん走ってしまい、気がついたら迷っていた。人の姿を見たら道を聞こうと思いながら走っていたら元の道に戻ったので、ようやく宿を探し出した。実は宿の近くになってからのほうが迷った、というのは内緒だ。
汗を拭きながら部屋に戻るとボスがいなかった。スクアーロは息を整えながらボスを呼ぶ。庭の先に気配がある――からからと窓を開けると、庭先の風呂桶の中に見慣れた後頭部。
「ボスー、目ぇ覚めたかぁ?」

へんじがない。ただのしかばねのようだ。

「…じゃねぇえええ!!!」

ボス!ボス!生きてるか生きてるかぁ死んでねぇかぁ意識あるかぁああ!!

そんなでかい声が耳元で全開でがなりたて、冷蔵庫にあったミネラルウォーターをぐいぐい口の中に突っ込んでくるので、ほとんど条件反射でザンザスはそれに手を伸ばして掴んで引っ張って湯の中に突っ込んだ。
おかげですっかり目が覚めた。



最高ランクのその部屋には、部屋付でコンシュルジュがついている。今日は4室のうち2部屋が埋まっている.。この場合はコンシュルジュは基本的に1人で対応することになっている。3部屋予約が入る場合や、人数が多い場合、子供や老人が入ると、1部屋1人の担当になるが、今朝の客の1組は一昨日からの連泊で今日チェックアウトの予定で、もう1組は昨日から3連泊の予定の二人連れだ。
昨日チェックインしたほうの部屋から電話があった。浴衣を濡らしてしまったので、新しいのを持ってきてほしいという。ゆうべは何も言い出さなかったが、今朝からさっそくきた、と彼女は思った。引継ぎから聞いたメモにさっと目を通し、一番サイズの大きなものを念のため二枚、手にして向かう。

ノックをすれば少し間が開き、ドアが開いて中から紅い目の青年が現れた。
腰にタオルを巻いただけという、朝から見るにはかなり刺激の強い格好だ。さすがにこの時期ではかなり寒そうに見える。
「浴衣をお持ちしました」
つい、声が震えてしまう。まさに水も滴るいい男、というヤツだ。タオルから覗く腹筋がくっきり割れている。
ここまで綺麗に割れている腹筋を、この部屋担当のコンシュルジュの女性は見たことがなかった。心臓の鼓動が跳ね上がるのを、懸命に押さえ込む。頬に血が集まる。いい男というものは、どんなときも女をときめかせるものだ。
「ああ」
手渡しながらそっと奥の様子を伺う。青年の髪が少ししめっている。肌から湯の香り。入浴中だったのだろうか。
離れのようになっているこのクラスの部屋は、各部屋に専用の露天風呂と、シャワーブースがついている。
「タオルは足りておりますか?」
「問題ない」
そういい交わしている間に、部屋の奥から声が聞こえる。名を呼んでいるような気がする。確かこの部屋の宿泊客は二人。フロントからは、たぶんカップルだと思う、と囁かれた。宿泊名簿には男性二人とあるが、最近はそう珍しくもない。
「朝食は?」
「いつでもご用意できます」
「そうか。あとランドリーは使えるか?」
「はい」
「これを頼む」
部屋にそなえつけのランドリーボックスに、服が突っ込んであった。
「いつお持ちしますか?」
「そうだな、…夕方までに戻ればいい」
「はい。朝食はお持ちしますか?」
「頼む。…すぐでなくていい、…一時間後くらいで」
「かしこまりました」
そう言って彼女はドアを閉める。さすがに命令しなれている人の物言いだ、と彼女は思った。
朝食のサービスは仲居が行う。三日のうちにもう一人の客の顔も見られると眼福かもなぁ、と彼女は思った。フロントではゆうべ、ちょっと話題になったほどの、美男美女のカップルだったという。美女ではなさそうだ、と気がついたのはフロントの係長だけだった。確かに宿帳にはMaleに丸がついて「2」と書いてあるというのに。
さっき目の前を通り過ぎた、銀の髪のジャージの青年がそうだったと、少ししてから彼女は気がついたのだが。


「寒ぃ!」
部屋の暖房の温度を上げて、すっぱだかに近い格好で文句を垂れている形のいい頭を軽くはたいた。そんなことではもう何もいわなくなったスクアーロが、寒い、ひでぇ、痛い、と繰り返す。
ザンザスは喉を潤していた水の瓶を差し出して、とりあえずそのうるさい口を塞ぐことにした。
「飲め」
「んぁ?」
何もいわずそれを手にとって残りを底まで干す。少し喉が潤ったのか、ようやく落ち着いて息を吐いた。

「どこいってた」
「あたりを走ってた。久しぶりだからつい遠くまで行って迷ってたんだけどよぉ、……じゃなくて!」
「二日酔いの頭の隣で大声でがなり立てるてめぇが悪い」

―――ごもっとも。

ぐうっとスクアーロの反論を封じて、ザンザスは少しいい気分になった。
どんな場合でも何の時でも、スクアーロが困ったり泣いたりするのを見るのはザンザスにとって一番楽しい。
スクアーロは面倒見がよく、義理に厚く、自分より目下のものには優しいので、ちょっとした笑顔や楽しそうな物言いや機嫌がいい状態にはしょっちゅうなるのだが、困ったり泣いたり嫌がったりするのは、ザンザスに対してだけなのだ。
だからザンザスはスクアーロの、そういう顔が大好きだった。昔から。
「だってよぉ、……アンタが動かないから、てっきり、……」
「勝手に人を殺すな」

そこまで言うと、しゅんとしおたれた雰囲気。怒られて尻尾をたらしている犬のようで、ザンザスはつい、楽しくなって笑ってしまう。そうすればスクアーロはすぐに機嫌を直すというか、怒ってしまってつっかかってくる。そんなことはすでに日常に近い。
露天風呂でいい気分でぼんやりしていたら(たぶん少し意識がなかったかもしれないが)、いきなり耳元で雷が鳴った。
本当の雷なら我慢したが、そうではなくて人の声だったので、ザンザスはそれを湯船に思い切り突っ込んだ。無意識に。
突っ込んだのは人間だったので大暴れした。あまりに暴れたので湯船に叩き落した。ランニング帰りのスクアーロは、スポーツウェアごとずぶぬれになって、ザンザスの膝の上に座らされた。そこでようやくザンザスは目の前にいるのが人間だと気がついた。気がついたので黙らせようと口を塞いだ。息を塞いだから静かになったので、ザンザスは満足した。

「髪を拭け」
「うるせっ」
タオルを投げて、うるさい男を黙らせる。ざっと水分をふき取れば、それをくるくると頭の上に巻き上げて、シャツを羽織り始めた。
「朝飯部屋出しかぁ? レストラン行けばいいだろぉ」
「だりぃ」
「……そんなに頭、痛いのか?」

心配そうに伺ってくるのに問題ない、と目で答える。いくら部屋が暖かくても、外はもう冬だ。せっかく温まって少しアルコールが抜けたというのに、風邪をひいては元も子もない。ザンザスもタオルを取りさると、服を着始めた。



朝食は宿を予約してくれた綱吉が気を利かせてくれたのか、和食ではなくて洋食だった。
左手が義手のスクアーロは、箸で食事をすることが出来ない。
ザンザスもそれほど得意ではないので、米の飯は嫌いではないが、面倒ではなく慣れている洋食のほうが、二人にはありがたかった。
しかし明日の朝はバイキングでの朝食がいいな、とスクアーロは思っていた。走った後には少し足りない。
焼きたてのクロワッサンとローズマリー入りのプチパン、バターロール、地元名産のラズベリージャムにバターにクリームチーズにヨーグルト、ふわふわの地鶏のオムレツに地元野菜のサラダ、同じく地元の豚肉から作ったソーセージ。グレープフルーツジュース、牛乳にコーヒー。フルーツの盛り合わせは日本のものばかりで、リンゴとブルーベリーはわかったが、他はわからない。案外どれも酸っぱくて甘い。日本らしい繊細な味。小さくカットしてあるので食べやすい。クリームチーズがあるのが何より嬉しかった。パンに塗るのはバターより、クリームチーズがより一層マンマの味。
二日酔いぎみのザンザスは、仲居がセットをして次の間に退出した後で、ものすごい勢いで朝食を食べるスクアーロに少し驚いた。
スクアーロはいつも、あの細い体のどこにあんなに食べ物が入るのかと思うほどよく食べる。
さすがに最近は昔よりは大分減ったようだったが、それでも基本的に朝はほとんど食べないザンザスには、その食欲は一種の感動的なものにすら思えた。

「ボスさんもちゃんと食え」
「いらねぇ」
「二日酔いだって何か腹に入れなくちゃ駄目だぁ。風呂でぶっ倒れるぜぇ」
「は?」
「今日はちょっと遠くまで足を伸ばすんだぜぇ」
「…本当にソトユメグリとかすんのか?」
「するぜぇ! だから少しは食え! サラダだけでもなぁ!」

朝からひたすらスクアーロが元気だった。夕べ何もしないで寝てしまったからだ、とザンザスは思った。この男が全力で活動していると、うるさくてうるさくて仕方ない。黙らせるために少し、撫でてやる必要があるな、とザンザスは思った。布団の海でもシーツの波間でも問題なく、銀の鮫はよく泳ぐ。
ザンザスの倍の速度で朝食を平らげているスクアーロの食べっぷりはいつもながら見事だった。昔はもっと素っ気無い食べ方をしたものだったが、いつからか、きちんと生きていくために食べ物を味わっている、というような食べ方になってきたことを知っている。昔からあまり音をたてずに食事をするほうだったが、楽しそうに食べるようになった姿を見るのは、どんなときでも目を楽しませることが出来た。惚れた欲目といえばそれまで、だがそんなものでもなければ、そもそもこんなところで食事をしていることこそがありえない。
オリーブオイルがないのが少し惜しい。瓶をどこかで調達するか、とザンザスは思い始めていた。長い旅には慣れ親しんだ調味料があるだけでも大分違う。日本料理はあっさりしていて嫌いではないが、何でもしょうゆの味がするのが難だな、とザンザスは思っている。肉が少ないのも惜しい。
パンは半分はスクアーロが貰っていって全部食べた。珍しくグレープフルーツジュースがおいしいと感じるのは、やはり二日酔いだからなのか、とも思った。日本のジュースは母国のそれより少しばかり薄い。これに関してはザンザスは日本の味のほうが好みだ。


スクアーロは本当に元気だった。
ザンザスはうんざりしながら、しかし結局それにつきあった。
読みにくい日本の文字をサングラスの下から目で追って、旅館に並んでいたパンフレットの英語訳を拾い読みして、湯の効用が切り傷と火傷の回復にあると知ってからは、なんとなくそれをとがめる機会を失ってしまった。意図してそうしたわけではないらしい。
「また切り傷か」と呟いたのを聞いて、「…嫌なら一人で行ってくる」と答えられたので、つい、聞いてしまった。別にそういうつもりじゃなかったけど――でも。
宿の選び方や予約をするのに、綱吉と奈々の話をかなり参考にしたと言った。
どちらかが(あるいは両方が)、そういう意図を持って宿を選んだり、日程を組んだ可能性は高い。ついでなのかもしれないが。
はじめは自分の外見とスクアーロの体との両方の意味を含めて、人前で体を見せることに躊躇があったことは事実だ。一週間になろうとしている旅の中で、裸で湯につかることにも大分慣れはしたが、それでもやはり、気にならないことはない。
自分もそうだが、スクアーロの肌のほうが、なんだか一層、ザンザスは気になった。
外から見えないところに全部、残っているからだろう、と思った。頬に残った傷跡は大分、消えて綺麗になっていた。湯に入るとうっすら赤くなるが、それは体が温まったせいで赤くなった頬と、よほど近づかなければ違いがあるかは判別できない。
背には何もない。真っ白で綺麗なものだ。だがそれは、表に返せば肩に、脇に、腹に、大きなものは鮫に食われた争奪戦のもの、小さなものは抗争で出来た刀傷や銃がかすめただけのものまで含めて、かなりな数になっていた。ザンザスが知らなかった時代のものが一番多い。かなり昔のものであるのに、湯で温まるとその古傷が、ぼうっと白い肌に浮かび上がってくる。
昼間からこんなにじっくりと、スクアーロの裸を見たことがなかったな…とザンザスは思った。それは向こうも同じだったらしい。

「なんだか、真昼間から風呂に入るのって、……変な感じ、だぜぇ」
「酒が飲めれば最高だな」
「そしたら一日中酒飲んでることになるじゃねぇかぁ。少しは運動しろぉ」
「トウジってんだろ、こういうのは。だらだら歩き回るだけでいいじゃねぇか」
「……太るぞぉ、それに毎日うまいもんばっか食ってて病気になるぜぇ」
「日本食は一番健康にいいって話だが?」
「こんな旅館の食事が普通の食事なわけねぇだろぉ。肉が少ないからってイライラするなよぉ」
「……まぁそうだな。しっかし、こんな山の中でも生の魚が出るってことが不思議だぜ」
「どこ行っても野菜が新鮮なのはすげぇと思うぜぇ……」
「オリーブオイルかけてパニーニ食いてぇ…」
「じゃ部屋付のメイドに頼んでおくかぁ?」
「…こんなとこに売ってるのか?」
「聞いてみればいいんじゃねぇかぁ」

どうでもいい話をどうでもいいようにする。今二人がいるのは外湯の一つで、たいそう狭い。ふたりで湯船に入るとそれでいっぱいになる。
浴室の中も狭くて、あと1人入ってきて、体を洗ったらもう、いっぱいいっぱいだ。脱衣所が狭くて、服を脱ぐのが大変だった。
しかし湯の温度は一番ぬるく、昼間は誰もいないので、静かなものだった。
ドア一枚隔てた外は往来で、狭い道を小さい車がそっと走る音が聞こえる。おそらく浴室の窓の外も、旅館の裏に繋がっているのか、忙しく立ち働く声が、時々耳に入った。

木で作られた湯船の枠に肘を乗せて、ザンザスはふうっと大きく息を吐いた。確かに日本に来てから、呼吸が楽になったようだった。
無理しなくても息が吸える。肌に馴染む空気に殺気がない。外国人だという意味で二人を見るけれども、それだけの興味でしか見られないことの安心感がある。1人でいたらまた違っただろうが、慣れ親しんだ空気が傍らにあることが、一層それを楽にした。

二つめの外湯に入った後、「少し山に行くぜぇえ゛!」とスクアーロは地図を取り出して見せてきた。ザンザスはすでに眠くなっていた。まだ二日酔いが残っている…わけではないようだったが。
「猿と一緒に風呂に入れるんだぜぇええ゛!」
それのどこが楽しいんだ…? と疑問に思いつつも、結局さらに山の中に向かっていくのについていった。スクアーロは街の中にいても普通だが、なぜだかこういう自然の豊富な場所にいると、生き返ったように見えることがある。本来スクアーロの持っている野生の力のようなものが、発揮されるからなのか、とザンザスは思う。スクアーロの生命力は、冬を迎える異国の荒涼とした山あいでも、なんら鈍ることがない。かえって一層、体の中から輝くように光って見えることがある。
自然は水で出来ている。だからなのか、スクアーロはひどく自由に見えた。――いままで見た、どこよりも。


山に向かって川を下り、川沿いにある露天に入るのにかなり時間を食った。いい運動になった。スクアーロはどうせ時間はあるからいいだろう、といって宿からそこまで歩いていったのだ。途中でザンザスは嫌になったが、スクアーロはまったくへこたれない。元気よくずんすん歩いて、車を拾えだのバスに乗れとかいうのを無視しつつ、文句を言うボスをなだめつつ、結局道の突き当たりまで歩いていった。同じようにしている中高年の日本人は多かったので、格段目につくわけではなかったが。
川の中の一軒宿に向かい、そこで昼食を取った。日本の麺を頼む。スクアーロが食べ方を全部解説してくれて、「ジャッポーネの麺は音を立ててもいいんだぞぉ」と言いながら、ずるずる音をたてる。麺をすする仕草も慣れたものだ。
スクアーロはザンザスよりも回数はずっと多く、日本に来ている。守護者同士の交流を深めるためと、山本武に剣の稽古をつけるためだ。合間にあちこちに出向いて食事をしているらしい。麺のマナーもそれで習ったと言っていた。
しかしそれでも、さすがに箸を上手く使うことは出来ないらしい。店の人が気をきかせて、二人分のフォークとスプーンを貸してくれたけれども。


露天風呂は本当に露天だった。屋根も一部にしかない。川に向かって広がる景色は、違う季節に来ても野趣のあることだろうと思われた。
その日は曇りだったので、外で風呂に入っても大丈夫だった。二人とも目の色素が薄いので、日中の屋外の風呂に入るなどということは自殺行為に等しいのだ。目が痛くて仕方なくなる。曇りでも本当はサングラスをかけていたいくらいだった。紅葉が一瞬で終わった山々は、妙に白茶けていて光を反射する。
スクアーロはご機嫌だった。どこの風呂に入ってもスクアーロは機嫌がよかった。入るまでにザンザスとちょっとした言い合いをしていても、風呂に入るとそんなことはどうでもよくなるらしい。単純ではあるが、確かに風呂に入ってまで言い合いをするのはおもしろくはないことだった。特にこんなふうに、異国の地の屋外で、すっぱだかでいるときに、喧嘩もないもあったものではなかった。ザンザスも普段の半分くらいしか、自分の怒りが持続しないことに気がついていた。温泉のせいだ、と思うことにした。
外は肌寒いのに、真昼間っからすっぱだかで風呂に入ってぼーっとしているのだ。怒ったり憤ったりする感情が、長続きするはずがない。

ぼーっとしながら、ザンザスは今までのことをつらつらと思い出した。スクアーロと出会ってからの十有余年の歳月をだ。
気がついたら、この男が傍にいない時間のほうが、自分の人生では長くなっていた。
不思議なことだ。その前の数年間は、お互いまったく顔も知らない他人同士だったというのに。今はお互いのことを家族よりもよく知っている。わからないことは多いし、気持ちなどさっぱり推し量りようはないが、お互いの好みも嗜好もやりかたも、きっと誰よりもよくわかっている。
なんでこんなことになっているんだろう、この男と自分とは。これはなんだ、すでにこれは家族なのではないのか。少なくとも上司と部下ではあるまい。
いつからこの男とこんな、恋人のような、夫婦のような、愛人のようなものになったのかもよくわからない。たぶん十年くらい前だろう。
この土地での争いの後のことだ。

湿気のある水の多いこの国から、乾いた母国に戻ってしばらく、二人は離れて暮らしていたことがあった。軟禁状態で押し込められていた屋敷の中で、年が開けるまでずっと鬱々としていた。たぶんあのままいたとしたら、夏を迎える前に自分は死んでいただろう。
二ヶ月で戻ってきたこの男との関係はしばらくは酷いものだった。けれど別々に暮らせなかった。半月ほど行方をくらましたこともあった。結婚話がかなり前向きに進んで、そのまま成立しそうになったこともあった。逃げられて行方知れずになったこともあった。
けれど結局、どれも駄目だった。なにひとつ成功しなかった。なにひとつ。
成功したのは今もまだ、この男がここにいるということだけだ。

それだけしか出来なかった。それしかしたくなかったのだということに、最近ザンザスは気がついた。今もそうだ。
スクアーロはしたいことしかしないし、出来ることをするし、ほしいものしかほしがらないし、ほしいものはなんでも自分で手に入れる。
ザンザスはそうではない。そうではなかった。スクアーロはしていたことはなにもかも、ザンザスが出来なかったこと、許されなかったこと、許されないと思っていたことだった。
欲しいものはあった。本当に欲しかった。だがそれが手に入らないものだと、知っていても諦められなかった。どうしても。
それ以外のものは欲しくなかった。それ以外のものに、どんな価値も見出せなかった。それだけが、生きている証拠だと思っていた。思わされていた。長い間、ずっと。
全部なくしたときに、手の中に残っていたのは思い出だけだった。ほんの僅かの短い思い出、半年の夢のような時間と、八年たってもそれを忘れなかった灰青の瞳だけだった。それだけ、本当にそれだけだった。

それでじゅうぶんだと―――それがじゅうぶんなのだと、わかった日はいつだったのか。


「なぁ、あんま見てるとヤバいぜぇ」
「あぁ?」

いい気分でいろいろ、思い出していたところを中断される。それほど大きくない湯船の中をすーっと近づいてくる。
「あんたさっきからあっちのボスにガン飛ばされてるのに気づいてるかぁ?」
「はぁ?」
なんだそりゃ、と思いながら隣を見て、また顔を元に戻す。
少し先に同じように、湯気がもうもうとあがる風呂があった。
その先の、少し高くなっているところにひときわ大きな猿がいる。
じっとこちらを見ていた。
「猿がいるんだな」
「そういう風呂だぜぇ」
「あれがボスか?」
「さっきからアンタをじっと見てるんだぜぇ」
「はぁん? 生意気だな」
「あっちもボスなんだろ」
「は、」
「赤いもんを見ると興奮するって聞いたぜぇ」
「…俺に喧嘩売ろうってのか」
「おい、本気になんなよ」
猿の姿勢が変わった。尻を高くあげて、体を大きく見せる姿勢。歯をむき出しにして、威嚇してくる。
「こっちはマッパだっての…!」
少し呆れたような口調。本気で喧嘩になるようなことはないだろうが――ケダモノとガンを飛ばしあうのも妙に面白かった。

風呂でだらだらしたら妙に疲れた。少し横になるといいですよ、と促されて畳の上に横になる。
なんだこのだらけた生活は。こんなあばらやで薄い布団みたいなもんの上で寝ろというのか。
しかしどうにも眠くて体が動かない。おきているのが辛い。
「10分でいいから寝るといいぞぉ…」
「勝手に寝るな」
「…起きたらいくらでも言うこと聞くから、……ねみぃ…」
ネジが捲ききれたようにばったり、スクアーロは布団の上に横になると一瞬で寝てしまった。
なんだこれは。そんなに気が張っていたのか。
こんなところで横になるのはどうにも我慢できなかったが、しかし襲ってくる眠気の威力はハンパなかった。
抗い難い力でザンザスを覆いつくした。なんてことだ、こんなところで寝ている間に何かされたんじゃ、シャレにならねぇぞ――そんなことを思いながら、ザンザスも目を閉じてしまった。
あとは一瞬で、ブラックアウト。


日が暮れてから宿に戻った、帰りも歩いて帰った。一休みしたのでかなり楽に戻れた。帰りは下りだったからかもしれない。
二日目の夕食は部屋出しにしてもらった。地元の肉牛のステーキを追加した。
スクアーロはやっぱりものすごくよく食べた。旅の間も本当によく動いてよく食べるもんだな、としみじみとザンザスは思った。
今夜はその消費に自分も協力するべきだな、と思いながら、ザンザスはきのこの寄せあえを口に運んだ。
たぶん自分は笑っているんだろうとザンザスは思った。
自分が眺めている目の前の男が、ひたすら嬉しそうに、楽しそうに――ひどく綺麗に、ずっとニコニコキラキラしているから、だった。



2009.4.10
温泉街で迷いそうになったのは実話です。温泉街の中は道が非常に狭く、方向感覚に自信があった自分でもちょっと不安になるほど迷いました……。温泉は渋温泉。猿がいるのは地獄谷温泉
もう勝手にしてろやおまえら、という気分に……せっかく頂いた絵のところまで話が進みませんでした…。

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