TheDaybefore
 
少年はうんざりしていた。
世界中の総て、彼をとりまくすべてにだ。
パーティ会場にいるのはほとんど拷問に近かった。耳を塞いでいても会場の中にたむろっている大人たちの思念は、彼の頭の中にいつまでも、消えないこだまのように響いてくる。それは言葉になってはいなかったが、明らかに何らかの思念があった。
少年はそれにうんざりしていた。心底うんざりしていたのだ。
連れてこられた女たちの、無邪気な感嘆(それはこの会場の食事に、そしてシャンパンに!)は囁きのように小さい。
大声で響くのは欲望の大きさに比例している。吐き気がする。
どれもこれもすがりつき、おこぼれを欲しがり、わずかな隙間があればそこから無理矢理にでも手を突っ込んで、何でもいいから掠め取ろう、奪い取ろうとしか思っていない人間の声なき声だった。そうでなければそこにあるのは、少年へのほとんど嘲りに近い憐みの声だ。知識と権力はこの国では伝承される。当然のように退廃も伝承する。権力の中に入ってきた異物は排除される。
生きるためには破壊するしかないことを、少年は幼少時に暮らしていた狭い空しか知らない窓辺よりも、一面の緑の広がる古い城のバルコニーの中でより強く感じた。
空の広さは比べようもないが、しみったれた不自由さはかわらなかった。いや、もっと不自由だった。

少年は一人になることがない。
かつて誰も少年のすることに耳を傾けなかったのが夢か何かのように、今は誰も彼もが少年のすること、言うこと、為すことに気を配る。
恐怖をたたえ、嘲りといくばくかの同情を持って、常に少年の手の届かないところで彼のすることを監視している。罪人よりタチが悪かった。
今もバルコニーへ続く窓のカーテンの影で男が一人立ってこちらをじっと見ているのだった。
きっちりと締まったネクタイを緩める。行儀が悪い、育ちが悪いと言われるのは確かだったが、そうでなければ息も出来ない。
体の上に一枚、ぴったりとかぶせたような衣服はそれこそ第二の皮膚となって少年の伸びやかな体を包み込んだ。
なめらかで姿勢のよい背中、しなやかで張りのある肩先、曲線で作られているはずなのに直線しか感じさせることのない長い足。シャツのカフスの先に伸びる長い指先は、これからの体の大きさを想像させるに十分だった。少年はそろそろ父親の身長を越えるところだった。同年代の子供よりは少し背が高かったが、子供の頃の栄養不足はいかんともしがたく、胸板は驚くほど薄かった。
常に飢えていた昔を、少年はもう思い出せなくなっていた。
修理もされていない大きな穴の開いた靴、長すぎてまくりあげた袖が余る誰かのシャツ。
素肌にすいつくようにぴったりとあつらえられたシルクのシャツの向こうに、それはひどく遠い。
たかだが数年、大人にとっては一瞬だったが、少年の人生の中ではその比率はずっと大きい。

いいかげんこんなところで風に当たっているのも飽きてきた。
大人たちのあからさまな、隠微な、ささやかないやらしい言葉の嵐に気押されて、逃れるようにこんなところにじっとしているのは嫌だった。
名目はなんであれ、本来の主役は自分ではないことを少年は知っていた。バルコニーから会場へ戻る。監視と父親のなまぬるい視線だけは少年を追いかけてきたが、それだけだった。少年は足早に会場を後にした。監視をまかされていた部下の残念な思念がチリチリと首の後ろを焼く。イライラする。会場の食事は監視の身分にしてはあまり口にすることが出来るものではないだろうが、それを口にすればいいだけのことだ。その後の保証は出来ないが。
退屈を紛らわす相手など、この世界のどこにもいない。
出口で車を回されるのを待っている間にも、少年はひとりきりだった。
名目は護衛の(実際には監視、のほうがしっくりくる)部下は彼の手の届かないところに立っている。そんなに離れていて護衛の意味があるのかと少年は考えるが、暗殺者の殺意など、一キロ離れたところからでもわかってしまう少年には、護衛など本当は必要ないのだった。
車のドアが開けられ、少年は後部座席に乗り込んだ。
ゆっくりと鷹揚に腰を折る少年の姿は、今日十五歳になったばかりとは思えない、王の風格をすでにその身に携えていた。

「出せ」

久しぶりに口にした言葉で喉がヒリついた。運転席との間のシールドがゆっくりと降りてゆく。
こんな風にして、他人の意識も遮断できればいいのに、と少年は思う。護衛は助手席に乗っていた。

少年は一人で、ひとりぼっちで後部座席で足を組んだ。
何もかもがくだらなかった。
力が欲しかった。
いや、本当に欲しかったのは力だけではなかったのかもしれない。
力なら持っていた。充分に、充分すぎるほど少年は力を持っていた。
力に見合うものが欲しかった。
だがそれは何なのか? と考えれば、少年はまだ答えを見つけることができなかった。
車の中から窓の外を見ることは好きではなかった。
しかし今は他に何もすることがない。
自由でない自分を思い知らされる気がした。
少年の赤い、にごった血のように深いガーネットの色の瞳は、夜の街を眺めている時が一番安心できた。

そのとき、色とりどりの色や光に満たされていた街の中を、何か白いものがよぎった。
さえざえとした夜の街の中で、そこだけ何も色もなくて白かった。
ひょろひょろした姿の、まだ子供からはみ出したばかりの少年だった。
その姿に一瞬彼は目を奪われた。
信号で止まっているあいだ、少年はその白いものを見ていた。
スモークガラスの向こうでもそれは白かった。
信号が変わった。
それはすぐに人ごみまぎれて消えてしまった。

すぐに街頭の灯りが減ってきた。少年は窓のから視線を動かして、姿勢を変えて目を閉じた。
移動している車の中が、一番危険から遠かった。盗聴も毒殺もない。
少年は三回ほど、ゆっくりと大きく息を吐いた。大きく吐けば大きく吸える。
大きく吸えば肺に空気が満たされて、すぐに眠くなった。


少年が彼の運命に出会うのは、それから半年後のことだった。








 


2008.10.9
出会い前夜に挑戦してみた。
当時の状況を考えるとなんとなくBANANAFISHの番外編を思い出します。ブランカの出てくるほうね。


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