わたしにさわってそしてキスして


知らなくてもよかったのだ、と思うこともある。
本当はそうだろうと思っている。
だって感覚はいくらでも騙せるのだ。
私はそれを知っているし、それが私の力なのだ。
本当の「感覚」なんて、実はいくらだって騙せることも知ってるし、出来る。
私の感覚じゃなくて、相手の記憶を探してそれを使ったほうが、ずっとうまくいくこともあることを知っている。
それでも、それでも、私は知りたかった。
知っておきたかったのだ。
快楽というもの、快感というもの、セックスということ、異性の体を受け入れる、ということ。
それを知りたかった。
知っていたかった。

あのひとに触れるまえに、一通り、全部、知ってしまいたかった。快楽というもの、セックスというもの、挿入されるという感覚、突かれて感じる、快感というもの、粘膜を擦りあって吐き出す行為を、気持ちがいいと感じる、その感覚を。
知りたかったのだ。
あのひとの体以外で。


「そんなに固くなっていては、まるで僕が強姦するみたいじゃないですか」

そう言ってクロームの頬を撫でる指先には、暖かい感触がある。
人の体の感触だ、肌のぬくもりだ、生きている、実体の、その重みだ。
けれどクロームの頭はそれを、まだうまく受け取る事ができない。
あまりに長く焦がれて求めて欲しがって、けれどとうの昔に諦めて、かなうことなど願わずにいたことだったから、そして彼女も彼もそれを「感じさせる」ことが出来たから、今こうして目の前にいても、それを信じきることが出来ない。コレが全部幻覚だったとしてもそしてそんなことはないのだとしても、それをどうやって理解すればいいのだろう? 
あまりに互いの感覚が同じところにありすぎて、それを分かつことなどすでに不可能なのは、互いによく、知っているというのに。

「すみません…」
「息を吐いて。もっとリラックスしてください」
「はい、骸さま」
「犯罪を犯す前はこんな気分なのでしょうかね。おかしな感じです」
「そんな。別になにも、これは、わるいことじゃないですよね…?」

すでに彼女は少女ではない。
十年の歳月は人に愛されたことのない子供を、人を魅了する花の乙女に変えるのに十分な時間であるだろう。
美貌の女優を母に持つだけに、クロームは長じれば一層、その容貌は花とたとえられるにふさわしい華やかさを持ち始めていた。
片目を長い前髪に隠しても、ぬめるような白い肌や、長くて重みのある睫毛、憂いを帯びた目元はどうしたって、異性をひきつけるように匂いたつことを止めはしない。
それが誰に手折られることがなくとも。

「そうだと思いますがね。……いいのですか?」

クロームの細い肩から、骸の指先がストラップを下ろす。すっぽりと手の中に入る丸い曲線の肩のまろみを、骸の指先は丹念に撫でるばかり、それは子供をなだめる親の手つきに似ていて、クロームの背中から緊張が解ける。

「骸さま、…わたし、もう子供じゃないんですよ」
「おや? 私はおまえを、子供だなんて思ったことは一度もありませんよ」
「そうですか…? 本当に?」
「そうですよ。僕のかわいいクローム」

僕のかわいいクローム。

何百回と聞いたその言葉が、本当に目の前の人間の口から出ていることが、まだ実感としてよくわからない。
だって実際、クロームが骸に会ってから、まだ、そう、まだ、たった二週間しかたっていない。
復讐者の牢獄から「連れ出された」六道骸の体が、十年の時間を越えて、現実の世界に肉体を伴って戻ってきてから、まだほんの半月しかたっていない。
牢獄に入る前の骸に、クロームは一度も会ったことがないから、クロームにとって、骸は、初めて会うのも同然の人間なのだった。
十年も前から、世界の誰よりもよく知って、知られているというのに――クロームの感情も感覚も知っているのに、記憶だってなんだって、知ろうと思えば全部知ることが出来るのに――、なのに生きて動いている骸と顔を合わせて話をするのは、まだ、ほんの数回なのだ。

「どうしたのですか、かわいいクローム」

骸の指先はまるで壊れ物を扱うようで、それがなんだか、嬉しいのか、そうでないのかよくわからない。
こんな感情は初めてで、だからどうすればいいのかわからない。
骸はいつも、自分のことを褒めてくれるけれども、それは本当に自分を思って言ってくれているだろうか、とクロームは思う。

「緊張しているのですか? …私には固くなってしまうのですね。犬や千種の時とはずいぶん態度が違うのですね」
「…骸さま」
「おやおや、そんな顔をしてはいけません。私は責めているわけではありません」

骸の指はやさしくクロームの髪をすく。その指先は、とても、とても暖かい。その暖かさに、クロームは体の中を、熱い、熱いなにか熱い塊がこみあげてきて、息が出来なくなってしまいそうで、苦しくて――骸の顔を、見つめていることが出来ない。
ひと時でも目を離したくないのに、色の違う二つの眼差しを、ただ、見つめていたいのに―――この瞳を見つめてみたいと願っていたのに。

「おまえが何を考えて、あの子たちと寝たのかなんてわかっていますよ」

骸の瞳はいつも優しい。とても優しくて、どこか懐かしくて、見つめていると胸の奥が暖かくて、それがなんだか、つらい。

「わかるのですか、骸さま」
「わかっていますよ、かわいいクローム」

わかっていると、そう彼は言う。わかっていますよ、そう――彼は言う。
ならばかわっているのだろうか、この人は、私がしたことは、全部。全部、かわっているのだろうか。
本当は知らなくてもよかったと、骸はそう、言うだろうか。

「おまえが欲しかったのは僕でしょう。昔も、今も。わかっていますよ」

そうつぶやく薄い唇が、なだめるように細い少女の肩を抱く。抱きしめる。その力がほんものだと、わかることがいとおしくて、愛しくて、同じことしかいえない自分の、動かない唇が厭わしい。
目元にたまった涙を吸い取る、他人の唇が誰よりも愛しい骸のものだと、知ることがとても――苦しくて仕方ない。

「おまえには何もあげられなかったですからね、……欲しかったんでしょう、僕が」
「骸さま」

唇はやがて、瞼の上をかすめて頬を落ちる。それは本物の感触で、それだけが本当に、クロームは体中が震えて、息が止まってしまいそうだ。

「あの子たちはどうでしたか? やさしくしてくれましたか?」
「…こんなときに、聞くのですか、骸さま……?」
「フフフ」

唇を少し、ゆがめて笑う、その笑顔を間近で、そう本当に見たかったのだ――と、クロームは体が震えるほどの歓喜を、全身で感じていた。
骸さま、そう唇が言葉をつむごうとして、それが塞がれて閉じられる。骸の唇。それは想像していたのよりもずっと暖かい。……暖かい? そうでしょうとも、骸さまは生きている方、冷たい唇であるわけがない。わかっていたのに、何を想像していたの、クロームはその衝撃に体を震わせる。
これから彼とセックスをするということを、ようやく、実感できたような気がした。不思議なこと。そう、とても不思議なこと。

犬とセックスしたときにはまるで感じなかった、千種と抱き合ったときにだって思わなかった。二人とも、何度も何度もいいのかと聞いてきたけれども、クロームにはその意味がわからなかった。

「おまえは初めてを全部、骸さまにあげると思ってたぴょん」
「それでいいのか?」

二人ともそんなことを聞いた、それに私はどう答えたっけ? 
クロームはそれも思い出せない。
何かいったことがあったんだろうか、確かに二人と寝たのは確か、得られる快楽を知りたくて、二人と肌を交わしたのも確か。
けれども今はそんな記憶はどこかに消えて、目の前の骸さまが全て、彼の存在でいっぱいになってしまって、事実だけは覚えているけれども、もう何も思い出すことが出来そうにない。

「聞きたいですね、私のかわいいクローム」
「骸さま」
「可愛い、可愛い僕のクローム」
「骸さま、……」
「おまえの初めての男になれたあの二人、少し羨ましいかもしれませんね」
「すみません」
「わかっていますよ、……わかっています」

そういう彼は本当に、彼女の気持ちをわかっているのだろう。すべてをわかっているというのに、何故今こうして、肌に触れているのだろう。
わかっているなら、別に肌を触れる必要もないと、彼はそういうだろうと、クロームはそう、思っていたのに。
なのに骸はクロームの肌を撫でる。小さいけれど形のよい、まろい白い丘を、細い綺麗な指先で囲む。指先の、腹の一部分にだけ、力を込めて、そっと、その、肌を暴く。そんな動きに電流が走るような気がする。それも錯覚なのかもしれないとそう思う。そう思う、けれども、目を離せない。ただ目の前の、深い深い瞳を見つめることしかもう、クロームにはすることが出来ない。

「おまえはもう、他の誰も、欲しくないのでしょうからね」

そう、貴方は私の最初で最後の男――貴方が私の全ての官能、全ての快感、全ての――すべての愛情を捧げるひと。だからもういいの、知りたかったことを知って、私は全部、それを捧げることを後悔はしないとわかったから。
この肌が私を支配するのは必然、私が生きていられるのは貴方がいるから。
だからすべてをあなたに捧げることを、私は心の底から嬉しいと思っているのだと、その気持ちをどうしたら貴方に伝えられるのでしょう。
もしかしたらそんなことも、貴方はわかっているのだろうとおもうけれども。

そんなことを最後に、少しだけ思ったけれども――視界を埋めた瞳の奥に、数字をちらりと見た瞬間に、真っ赤な闇の中に消えてしまった。


「怖がらなくてもいいんですよ、……かわいくてかわいそうな僕のクローム」




2010.2.22
むくどく話が沸いてきたので書いた。むくどくファンの山城ちゃんに捧ぐ

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